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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

Libraさんとのメール対話その5





いろんな方から反響も多い、対談です。
いつもみなさん、ありがとうございます。
今回も「仏教と批判的合理主義」管理人(http://fallibilism.blog69.fc2.com/)のLibraさんとのメール対話です。第5回目になります。

今回、私の方がメールが遅れてしまい、少し時間が経ってしまいました。Libraさん、申し訳ありませんでした。いつも誠実なメールに感謝しています。


【Libraさんからのメール】


  気楽非活さん、こんばんは。ご返事、ありがとうございました。

 わたしからの返信は、3つの論点に分けて書きます。「本尊論について」、「信仰と学問について」、「『一念三千』について」、の3つです。

1.本尊論について
 わたしは丸山圭三郎さんのソシュール理解については詳しく知りません。ただ、以下のようにわたしは考えます。

 われわれ人間は世界を概念によって切り分けて認識をします。この際に用いられる概念の体系は、通時的にながめると可塑的だと思います。そのような意味で、「概念の体系というのはアプリオリには存在しない」という点については賛成です。わたしは、そのような考えをフッサールを源流とする現象学から学びました。このような考えを「どのような概念も自性として存在するわけではない」という形で理解するならば、龍樹の思想ともつながると思います。

 言語学についての議論は本質的な問題ではないと思いますので、これ以上は立ち入る必要がないと思います。といいますのも、わたしがソシュール的な表現を使って説明を試みたのは、以下の勝呂信静説がありえることについての理解を気楽非活さんに求めるためでした。以下の仮説がありえるという点が確認できた以上、わたしが「ソシュール的な表現」を使った目的はもうすっかり果たせました。

 「形式の点からいうと、本宗には、大曼荼羅・一尊四士・一塔両尊四士などいろいろの形式がある。これらはいずれも聖人の御書に根拠があることである。こうしたものを一つに統一しなければならないという要請は、形式という点だけにかぎるとすると、それは物体によって表現され、かつ規定されているから、どだい無理な註文であるといわねばならない。しいて統一するならば、一つを選んで他を捨てるより仕方ない。けれども、本尊を思想と考えるならば、これらの形式によって意味されている思想は統一されているはずである。直接に統一されていなくても、その根底になる思想は一つであるといわねばならない。」(勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、1965年、http://fallibilism.web.fc2.com/107.html

 さて、上の仮説がありえることは確認できました。そうすると、上の仮説が正しいと主張するためには、さまざまな形式に統一的に盛られているとみなしうる思想を実際に提示すればよいということになります。それを提示する試みが本尊論ということになります。

 わたしじしんの本尊論は、例えば、「問答迷人さんとの対話」
http://fallibilism.web.fc2.com/z025.html)などで提示しています。

2.信仰と学問について
 このことについては、最初のメールで書いておいたつもりなのですが、伝わっていないようなので、もういちど説明を試みます。

 【A:日蓮の思想とはどのようなものであったのかを学問的に研究すること】と【B:日蓮の思想を現代においてどのように受容するか(あるいはその価値を否定するか)を考えること】は次元を異にする問題です。

 そして、【A】のレベルでの探求の結論が、【B】のレベルでの価値判断の前提となるべきだとわたしは思います。もちろん、【A】のレベルでの探求の結論じたいは共有できるとしても、異なる価値観をもつ者にとっては【B】のレベルでの価値判断は異なりうるでしょう。

 気楽非活さんの「Libraさんの方が議論が日蓮に対して純粋であり、信仰者としては率直な敬意を抱きます」という評価には、上で述べた【A】と【B】のレベルの混同があるとわたしは思います。【A】のレベルでの探求は、そもそも信仰的な立場に依存しません。学問的に同じ方法論に立てば、同じ結論に至るはずです。少なくとも、「日蓮が書いたものであるとして信頼できる文献のみを使用テキストとして認める」という立場に立つのであれば、そうなります。これは、例えば、デカルトとかカントとかソシュールなどの歴史上の思想家について、その思想を学問的に探求していく過程となんらかわりません。

 【B】のレベルで言えば、学者の個人的な信仰に基づく期待というものは、たしかに存在するでしょう。それぞれの学者には、日蓮はこういうことを主張した人であって欲しいとか、そういう期待です。しかし、そういう期待は、そもそも、【A】のレベルでの議論に持ち込むべきではありません。
 
 【A】のレベルでの探求の結論が、ある学者の個人的な信仰に基づけば否定すべきものであるとしましょう。その場合、彼は、もはや日蓮を肯定的には評価できないということにならざるをえないでしょう。その逆もまたしかりです。

 わたしは、【A】のレベルでの議論に信仰者としての立場を持ち込んではいません。【B】のレベルで言えば、わたしは日蓮の罰論は大問題であると常々思っております。そういうことを対外的に主張してきてもいますので(「日蓮の罰論の問題点」、http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-13.html)、わたしは日蓮原理主義的に信仰しているわけではありません。「日蓮の乗り越え」を目指すのは「純粋な日蓮門下とは言えない」のだとすると、わたしも「純粋な日蓮門下」とは言えないでしょう。

 もっとも、わたしは、「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」(「曾谷殿御返事」)という日蓮の主張に素直に従いたいと思っているので、そういう意味では日蓮を信仰していることになるんだろうとは思います。


3.「一念三千」について
 たしかに、智顗は、自分の思想を「一念三千」とは呼んでいません。しかし、日蓮が「一念三千」と呼んでいる思想は、たしかに『摩訶止観』に表明されています(智顗じしんが記録したわけではありませんが)。そういう意味では、過去に智顗という人間の頭の中に存在した思想だと言ってもいいでしょう。その思想は、龍樹の理論の発展であり、一切法のあり方が無自性であるという認識に人々を導かんとするものです(新田雅章「中国天台における因果の思想」、仏教思想研究会編『因果』〔仏教思想3〕、平楽寺書店、1978年、http://fallibilism.web.fc2.com/122.html)。

 日蓮はきちんと智顗の原文を引用しつつ「一念三千」と言っています(「本尊抄」)。ならば、特に問題はないように思います。

 「一念三千」という表現を用いることによって、必然的に、「概念とか意味というものがアプリオリに存在」するという誤認を人々に生じさせるのでしょうか。わたしにはそうは思えません。実際、少なくともわたしには、そのような誤認は生じておりません。

 ゴータマの根本思想を「縁起」と呼び、龍樹の根本思想を「空」と呼んだところで、「概念とか意味というものがアプリオリに存在」するという誤認を人々に生じさせるということには必ずしもならないと思います。智顗の根本思想を「一念三千」と呼んでも同じことだろうとわたしは思います。

 とりあえず、今回の返信は以上で終わりです。


【私からのメール】

いつもありがとうございます。気楽非活ブログ管理人です。
まず先のメールからだいぶ時間が経ってしまい、返信が遅くなってしまったことをお詫びします。またこのメールに続いて複数メールを頂いていてまだ返信ができておりません。申し訳ありません。
言い訳になってしまいますが、ブログ記事として掲載したい内容がたくさんあり、そのわけで安易に返信をしたくないと考え、ズルズルと返事をするのが遅れてしまいました。誠実にメールにいつも感謝しています。


さてメール内容の論点3つについて。
1、本尊論
2、信仰と学問について
3、一念三千について
考えてみたいと思います。


1、本尊論について。

私の意図を汲んでくださり、感謝します。
先の勝呂氏の考え方は理解しているつもりです。私の言葉で言いますと、言葉というものは限界があるもので、一面的に切り取られた真実でしかありません。しかし言葉を超えた真実を語ろうとしてもそれは言葉を使わざるを得ない。そもそも仏陀の教説自体がそのようなものなのだと思うんですね。ですから多様な表現で1つの真実なりを伝えようとすることはある意味で仏教の根幹であるとも言えます。


2、信仰と学問について

わかりやすくまとめていただき、ありがとうございます。私の場合、【A】としての思想的検討の結果、それが信じるに足るのかという【B】として考えられているのだと思います。
私には「【A】としての態度と【B】としての態度に混同があるのではないか」というご指摘はある意味で当たっていると思います。
つまり私は「それが信じるに足るのか」という問題意識を持っているんですね。
その意味で私もまた原理主義的に日蓮を信仰してはいません。つまり私の中では信仰に対する検討が相互補完的になっているんですね。
私が純粋に日蓮を信仰しているのかわかりません。ただLibraさんのメールの文面からは誠実なものを感じます。その意味でお互いに方法は多少違いながらも、日蓮を求めて信仰をしているということは言えるのではないでしょうか。


3、一念三千について

実はLibraさんの意見はよくわかります。
『摩訶止観』において"一念三千"と呼ばれるような思想が存在したということは理解できます。私がここで主張したのは「一念三千」という用例です。「一念三千」は湛然に由来するものです。

「『一念三千』という表現を用いることによって、必然的に、「概念とか意味というものがアプリオリに存在」するという誤認を人々に生じさせるのでしょうか。わたしにはそうは思えません。実際、少なくともわたしには、そのような誤認は生じておりません。」

とのことで、私には理解できるのですが、問題は多くの創価学会員がそのように一念三千を理解されていないということにあるのかと思います。
一念三千をLibraさんや私が言うような概念として捉えるのであれば、やはり智顗に帰るべきかと思うんですね。智顗をきちんと読むべきですし、その上で智顗の文脈から一念三千を考えることは大切なことかと思います。
ただ実際の創価学会の皆さんたちは(私もかつてそうでしたが)、智顗を知ろうとしませんし、読もうともしません。日蓮によって越えられたから智顗は省みられないのです。
しかし少なくとも「一念三千」という言葉を用いて信仰をしているわけで、それなら「一念三千」を本来の『摩訶止観』の文脈、また湛然の文脈から考えることは重要だと思います。またそうでなければ天台宗の方々にも失敬な話になるかと思うんですね。
つまり本来のテクストから理解するということが大切であって、私のブログの問題意識は多くの創価学会員さんがそうではないということを主張しているわけです。
メールを読む限り、恐らくですが、私とLibraさんの一念三千に関する理解は共通しているように思えます。

いつもありがとうございます。また返信が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。



【Libraさんからのメール】


 気楽非活さん、こんばんは。

 気楽非活さんがご自身で納得がいくまで考え抜いてからご返信を書いて下さっていることについては、感謝の念しかございません。ありがとうございます。

 「一念三千」と名付けたのが湛然であるという点については承知しております。その点につきましてはどうかご安心を。

 「実際の創価学会の皆さんたちは(私もかつてそうでしたが)、智顗を知ろうとしませんし、読もうともしません。日蓮によって越えられたから智顗は省みられないのです」ということですが、本尊抄は『摩訶止観』の一念三千の部分の引用から始まりますね(日蓮が「乃至」として引用を省略している部分も大切な部分ではありますが)。

 創価学会の皆さんには、ぜひ本尊抄を読んでほしいですね。本尊抄を読めば、日蓮が、本尊の形式として、曼荼羅という形式だけではなく一尊四士という形式をも想定していることは明らかです。

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 其の本尊の為体〈ていたらく〉、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。八年之間、但、八品に限る。正像二千年之間、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗竝びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊文殊・普賢等を以て脇士と為す。此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。

(「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」、日蓮宗現代宗教研究所「真跡遺文」、http://genshu.nichiren.or.jp/documents/post-2285/id-2285/
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伝教大師、日本にして末法の始めを記して云く ̄語代像終末初。尋地唐東羯西。原人則五濁之生闘諍之時。経云、猶多怨嫉況滅度後。此言良有以也〔代を語れば則ち像の終わり末の初め。地を尋ぬれば唐の東羯の西。人を原ぬれば、則ち五濁之生、闘諍之時なり。経に云く 猶怨嫉多し況や滅度の後をや。此の言良にゆえ有るなり〕。此の釈に闘諍之時と云云。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指す也。此の時、地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。[p0720]
 月支・震旦、未だ此の本尊有さず。日本国の上宮、四天王寺を建立す。未だ時来らず。阿弥陀他方を以て本尊と為す。聖武天王、東大寺を建立す。華厳経の教主也。未だ法華経の実義を顕さず。伝教大師、粗法華経の実義を顕示す。然りと雖も、時、未だ来らざる之故に東方の鵝王を建立して、本門の四菩薩を顕さず。所詮、地涌千界の為に之を譲り与うる故也。

(同上)
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