気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

Libraさんとのメール対話その4



いつもみなさんありがとうございます。
今回の対話は第4弾になります。





【Libraさんからのメール】


 気楽非活さん、おはようございます。

 今、ご返事を拝読しました。時間がないので、一点のみ、とりいそぎ返信します。

 わたしはソシュールに詳しいわけではありませんが、言語表現において、「表現する形式が異なればそれが表現する内容は変わらざるを得ない」ということはないだろうと思います。

 たとえば、「あした」という表現と、「今日の次の日」という表現では、表現する内容は変わらないのではないでしょうか。龍樹でいえば、「空である」も「自性がない」も表現する内容は変わらないのではないでしょうか。



【私からのメール】


わざわざお忙しいなか、返信ありがとうございます。
一点のみ返信させていただきます。
言語学的な観点から付け加えますと、それはシニフィエ記号内容)とレフェラン(指示対象)を混同した議論になるかと思います。

つまりレフェランとしての内容であれば、それは同じものを違う表現で言い得ると思うんですね。
しかしながらシニフィエシニフィアンがコインの裏表の関係にあり、「記号を前提としない概念というものはアプリオリには存在しない」というのがソシュール思想の核であり、それこそが丸山圭三郎氏がナーガールジュナ思想との親近性を見た原点であるかと思います。

つまり「あす」と「あした」は指示対象が同じと言い得るのですが、ニュアンスや音節の数も変わりますし、また意味という概念は前後の関係、また文脈によって無限の意味の相違を見せるものです。
つまり言語そのものには積極的事項としての意味はアプリオリに存在せず、関係性の中で意味を浮かび上がらせるに過ぎないのです。これをソシュールは『講義』において織物の比喩で説明しているのは有名ですが、大乗仏教における縁起とは最初からアプリオリに存在している何かを否定するところから議論の一切が始まると私は考えています。




【Libraさんからのメール】

 気楽非活さん、続きです。

 「様々な表現方法があってそれらがお互いに相互補完的に同趣旨の内容を持つということを私が否定するものではありません」とのことなので、さきほどの私のメールは釈迦に説法だったのかもしれず、たいへん失礼いたしました。

 わたしとしては、勝呂信静さんの以下のようなお考えに賛成でして、その点について、気楽非活さんにご異論がございましたらお伺いしたいと思います。

 「形式の点からいうと、本宗には、大曼荼羅・一尊四士・一塔両尊四士などいろいろの形式がある。これらはいずれも聖人の御書に根拠があることである。こうしたものを一つに統一しなければならないという要請は、形式という点だけにかぎるとすると、それは物体によって表現され、かつ規定されているから、どだい無理な註文であるといわねばならない。しいて統一するならば、一つを選んで他を捨てるより仕方ない。けれども、本尊を思想と考えるならば、これらの形式によって意味されている思想は統一されているはずである。直接に統一されていなくても、その根底になる思想は一つであるといわねばならない。」(勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、1965年、http://fallibilism.web.fc2.com/107.html

 「もちろん形式はそれに応ずる意味を表現するから、このかぎり形式と思想とには親密な関係があるといえる。けれども形式が固定されているのと同じように、その表現する意味も固定した思想を形成するものであると考え、形式と思想とを機械的に結合し、両者の関係を固定視することは、決して正しい考え方ではない。近頃の本尊論議にみられる混乱の理由は、多くはこの点にある」(同上)

 他の論点については、上の論点が解決してから論じていくことにいたしましょう。同時に論ずる論点が多岐にわたると議論がわかりにくくなると思いますので。

 ではでは。



【私からのメール】


先ほど言語学的な観点から思うところを簡単な送りました。失礼だったら申し訳なかったです。
ただ言語学的な観点から言えば「シニフィエ」と「レフェラン」は違うと言い得るのですが、日蓮自身が本尊の形態について"一貫されていない形式"によって「一貫している何か」を表現しているというのは仮説としてあり得ることであって、そのことを私は否定するわけではありません。

つまり私自身の課題という問題なのですが、ナーガールジュナ思想をどう読み解くか、そしてそれをどう日蓮に見出すかを考えているに過ぎず、さほど日蓮という思想を高く評価していないのかもしれません。その意味ではLibraさんの方が議論が日蓮に対して純粋であり、信仰者としては率直な敬意を抱きます。

さて勝呂信静氏の引用ですが、私はこの仮説を充分にあり得ることと考えています。

 「形式の点からいうと、本宗には、大曼荼羅・一尊四士・一塔両尊四士などいろいろの形式がある。これらはいずれも聖人の御書に根拠があることである。こうしたものを一つに統一しなければならないという要請は、形式という点だけにかぎるとすると、それは物体によって表現され、かつ規定されているから、どだい無理な註文であるといわねばならない。しいて統一するならば、一つを選んで他を捨てるより仕方ない。けれども、本尊を思想と考えるならば、これらの形式によって意味されている思想は統一されているはずである。直接に統一されていなくても、その根底になる思想は一つであるといわねばならない。」(勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、1965年、http://fallibilism.web.fc2.com/107.html


本尊を思想と仮定すれば、それは法華経の会座を直裁に描画したものであると思います。そして日蓮自身が釈迦像を祀り、そこに唱題したという行為も、曼荼羅に唱題したという行為も日蓮の中ではなんら変わらない行為であり、ともに日蓮の中では整合性の取れた末法の修行であったと考えると、私が「一貫性がない」としたその理由も解けるような気がしてきますからね。

ただ私自身が当ブログでやろうとしていることは、そもそもの実在性の否定でありまして、概念とか意味というものがアプリオリに存在しないということなんですね。
つまり一念三千という概念が概念として固定化されてしまえば、それは『開目抄』のように「即身成仏の種子」とされてしまいます。そもそも智顗に「一念三千」という用例は存在しません。
ですから一念三千の運動態としてもう一度智顗の思想の再評価をはかり、曼荼羅思想をそのゼロ度の記号として考える。そのことに私の思想の主眼があります。


ご指摘のようにあらゆる形式で一つのレフェランとしての教えを日蓮が構想したことはあり得ると思います。
しかし私自身の思想ですけど、法の常住を主張することは最終的にドグマに堕することを回避し得ないと考えます。ですから「一念三千の法門」そのものが実は一心三観の運動であり、その実は空性なのだということを主張したいとここのブログで私が考えいるに過ぎません。つまり私が企図しているのは日蓮の乗り越えであり、その意味では純粋な日蓮門下とは言えないのかもしれません。