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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

Libraさんとのメール対話その3



いつもみなさんありがとうございます。
今回の対話は第3弾になります。





【Libraさんからのメール】

 気楽非活さん、こんにちは。

 おそらく、わたくしの書き方がわかりにくかったのだろうと思いますが、形式と思想を区別して、思想の観点から見れば、「日蓮の本尊観には一貫性がある」というのがわたしの考えです。様々な本尊の形式というのは、日蓮の中で一貫している一つの本尊思想を種々の形式で表現したものであるということです。「方便品」の思想が根底にあるのかもしれません。

 「シニフィエ(思想内容)としては一貫しているが、それを指し示すシニフィアンとしては様々なものが提示されている」とでも言えば、気楽非活さんには伝わりやすいでしょうか。

 そのあたりを議論したのが、問答迷人さんとの対話でして、これが上のようなわたしの考えを一番わかりやすく解説したものとなると思っています。

 ずいぶんと暑くなってきました。水分をこまめにとって、お互い、体に気をつけて頑張りましょう。

 では、今日はこのへんで。



【私からのメール】

メールご返事ありがとうございます。気楽非活ブログ管理人であります。
いろいろ考えるところの多いメールで、示唆深く考えていたためご返事が遅れましたことをお詫びいたします。


>「形式と思想を区別して、思想の観点から見れば、「日蓮の本尊観には一貫性がある」というのがわたしの考えです。」

この言葉でLibraさんの考え方がよくわかりました。つまり私は日蓮遺文から本尊の書き方について様々な表現がある以上それらは「一貫していない」と考えているわけなのですが、Libraさんは同等のシニフィエを持つという観点からそれらは形式として相貌の相違があっても、お互いに同趣旨の法華経の会座を表したものであるとしているということでしょうか。


そう考える時、確かに『報恩抄』の「本門の教主釈尊をもって本尊とすべし」という文と曼荼羅本尊との相違点は両者が互いに形が違えど同じ思想内容を表現していることになりますよね。


ところで私はソシュール記号論を思想の根に持つことから、シーニュによる表現内容というものは基本的には表現記号と不可分のものだと考えています。つまり表現する形式が異なればそれが表現する内容は変わらざるを得ないということです。
確かに論旨としては同じ思想内容を「本門の釈尊」と表現したり「曼荼羅」と表現したりすることは可能ですが、それらを本尊として一つの宗教としての枠と考えれば、信仰をする人たちによって持つ内容は次第に変化せざるを得なくなってくるのではないかと考えています。


私としてはナーガールジュナの空観に日蓮の思想を返すという観点から自身の信仰活動を振り返っています。とすれば、それら本尊の形態は「空」としてのゼロ記号を表す究極の点として考えられるべきなのですが、それらを表現するものに複数のものが存在するということは理論では理解できても、信仰活動としての本尊として定義する時にやはり齟齬が出てきてしまうものなのではないでしょうか。


つまりそこで常住の法や常住の釈尊を考えてしまうと、それらが信仰の本尊として固定化されてしまう。それらはナーガールジュナの考え方からみても否定されるべきかと思うんですね。
まあしかし様々な表現方法があってそれらがお互いに相互補完的に同趣旨の内容を持つということを私が否定するものではありません。ただナーガールジュナ思想を考える時に私がその立場に立っていないということをここで表明しているに過ぎないということです。


示唆深いメール、いつもありがとうございます。私としてはLibraさんのような学識がなく、冷汗三斗の思いですが、いろいろここで学ばせて頂けたら幸甚です。