気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

Libraさんとのメール対話その2





いつもお読みいただき、ありがとうございます。Libraさんとのメール対話、第2弾を今回は紹介したいと思います。


前回の対話はこちらをどうぞ。




【Libraさんからのメール】

 気楽非活さん、こんにちは。ご丁寧な返信ありがとうございます。

 わたしのメールの文章はぜひ貴ブログで公開して下さい。いろんな方に批判して頂ければ、じしんの誤りに気づけるチャンスが増えるのでありがたいです。

 本尊について考える際には、まず、【A:形式のレベル】と【B:内容(思想)のレベル】を区別する必要があると思います。このことは、もう何年も前に、勝呂信静という人がおっしゃっているのですが(勝呂信静『日蓮思想の根本問題』、教育新潮社、1965年、http://fallibilism.web.fc2.com/107.html)、いまだにこの区別をしないで本尊を論じて混乱されている方もおられるようです。

 AとBを区別した上でのわたしじしんの本尊論は、以下のようなものです。

  問答迷人さんとの対話

 Aのレベルで言えば、釈迦立像から五字まで様々な形式を本尊の形式として日蓮じしんは容認しています。例えば、日興は「御遷化記録」において、日蓮が所持していた釈迦立像を「御本尊一体」と書いていますので(宮崎英修『日蓮とその弟子』、平楽寺書店、1997年、p. 184)、釈迦立像という形式が本尊の形式として本弟子六人の間で容認されていたというのが事実です。これは、「『本尊問答抄』の述作以降、日蓮は仏像を本尊の形式として容認しなくなった」などということが事実でないことの証拠です。

 Bのレベルで言っても、日蓮は法本尊のみを本尊としているわけではありません。宮田さんは、『本尊問答抄』を根拠として、Bのレベルでも「法本尊のみを本尊とするのが日蓮が到達した最終的な考えである」という趣旨の主張をしています。しかしながら、『本尊問答抄』の論理を徹底しますと、【久遠実成の仏】と【一念三千の法門】の優劣は決しえません。そのことを論証したのが、わたくしの「宮田幸一説批判」(http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-34.html)です。

 日蓮曼荼羅の中尊は五字であって、それは一念三千の法門を意味しています。なので、曼荼羅(五字)に対して題目(五字)を唱えることを観心の実践と捉えるのは日蓮の意図に沿うものでしょう。観心本尊とはよく言ったものだと思います。

 日蓮曼荼羅はいわゆる密教曼荼羅ではなく、厳密に言えば、変相というべきものです。浄土変相も曼荼羅曼陀羅と呼ばれるようになっていましたから(加藤善朗「当麻曼荼羅研究の意義」、『西山学苑研究紀要』第2号、2007年3月、http://fallibilism.web.fc2.com/136.html)、日蓮が文字で描いたじしんの霊山浄土変相を「曼荼羅と呼ぶのは自然だろうと思います。

 井筒俊彦の「意味マンダラ」と「言語アラヤ識」思想については全く知りませんが、それがもし密教曼荼羅についての思想なのだとすると、それを日蓮曼荼羅にあてはめることはナンセンスかもしれないなと思います。

 気楽非活さんがおっしゃる通り、智顗の理論は龍樹の理論を発展させたものです(新田雅章「中国天台における因果の思想」、仏教思想研究会編『因果』〔仏教思想3〕、平楽寺書店、1978年、http://fallibilism.web.fc2.com/122.html)。『中論』の最初と最後の偈からも明らかなように、龍樹の理論はゴータマの理論(縁起説)を発展させたものです(同上、http://fallibilism.web.fc2.com/123.html)。

 わたしも、ゴータマ→龍樹→智顗→日蓮という流れで仏教を理解しています。このことについてずいぶん前に書いた論文が以下です(今となっては稚拙だと思う部分も多々ありますが)。

  「如来蔵思想批判」の批判的検討

 あと、「創価学会仏」なる喜劇についても少し書いておきましょう。原田会長は「末法衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現したものであり、等しく『本門の本尊』であります」と説明していますね。それを受けて、宮田さんは、「このことは教義的にどういうことを意味しているかというと、日蓮宗各派の寺院に安置されている日蓮真蹟本尊も、また日蓮正宗大石寺に安置されている『戒壇の本尊』も等しく『本門の本尊』として認めるということである。したがって『本門の本尊』を信仰の対象としている日蓮宗各派の信仰、ならびに日蓮正宗の信仰にも、応分の功徳があるということを教義的には認めざるをえないことになるのではないかと私は考える」(「学問的研究と教団の教義 創価学会の場合 日本宗教学会発表」、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/)というわけです。

 上のようなご主張じたいは全くその通りなのでありますが、これは、浅井円道さんの実にごもっともなご指摘(「創価学会の出現と問題点」、望月歓厚編『近代日本の法華仏教』(法華経研究Ⅱ)、平楽寺書店、1968年、http://fallibilism.web.fc2.com/099.html)を受け入れるのに、実に50年近い歳月を要したということを意味します。これじたいがまず一つの喜劇です。

 まぁ、何年かかったとしても、受け入れたことじたいは評価すべきでありましょう。しかし、そうなりますと、当然、過去に誤った根拠に基づいて日蓮宗と対論し(小樽問答)、勝った勝ったと宣伝したことについてもきちんと謝らないといけません。創価学会はそれを全くしておりません。「人に迷惑をかけたら誠意をもって謝罪する」というのが人としての最低限の倫理です。人としての最低限の倫理すらもちあわせていない人間を社会が宗教家として尊敬するわけもないのですが、そのような人たちが、みずからを「創価学会仏」と自称している。これほどの喜劇が他にありましょうか。小樽問答については以下を参照されてください。

  「創価学会日蓮宗の『小樽問答』再現記録」(『現代宗教研究』第40号)

  「小樽問答」の勝敗

 長くなりましたので、このへんで。これからもよろしくお願いします。



【私からのメール】
Libraさん、メールありがとうございます。このメールでの語らいはとても意義深く、順次ウェブで公開していきたいと思います。


まず本尊の問題ですが、これはLibraさんの仰る通りで、そもそもの日蓮の本尊観に一貫性がないというのが私の見解であります。
また日興は『原殿御返事』で釈迦立像本尊を認める発言もしていますから、これらの本尊観を日蓮と六老僧との間で共有していたと考えられます。『報恩抄』にあります「本門の教主釈尊を本尊とすべし」という文の意図はそこだと思います。


ですからLibraさんが言われるように「久遠実成の仏」と「一念三千の法門」とは日蓮の遺文から判断して優劣は決し得ないと私も思います。私のこのブログでの議論もまた法本尊にやや偏向した議論になっていると思いますが、それは私がナーガールジュナ思想から一心三観、一念三千概念の捉え直しを企図しているだけなのであって、別の論者が「教主釈尊本尊論」の新しい解釈を日蓮遺文から創出することは充分にあり得ることです。またそれらを私は否定する立場にはないと思います。


日蓮曼荼羅密教曼荼羅ではなく、むしろその言葉を借りた"変相"であるという指摘はとても興味深かったです。ありがとうございます。日蓮が自身の霊山浄土を文字曼荼羅として描いたという点については同意いたします。


私たちが最も共通している見解は智顗の思想が龍樹の発展であること。そして釈迦から龍樹、そして智顗に至る流れを大乗仏教運動の一つの流れと解していることかと思います。


創価学会の現在の本尊に対する考え方は、ご指摘の通りで、やっと浅井円道氏の指摘の通りに学会教学が追いついてきたということなのだと思います。
だからこそ過去の総括が必要であると思います。また依然として日寛教学に深く根ざした教学理解を前提としていますので、最終的に日寛教学を完全に否定し、独自の教学体系を構築して初めて真の"魂の独立"と言い得るでしょうね。


長くなりました。またメールいたします。
いつも本当にありがとうございます。