気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

Libraさんとのメール対話。





いつもみなさん、ご覧いただき、ありがとうございます。
当ブログに対してメールにてご意見をいただきました。送信者はブログ「仏教の批判的合理主義」管理者であります"Libra"さんです。
内容が興味深く、また示唆に富んでいましたのでLibraさんのご了解を得てここに掲載します。
また私の返信も一通併せて掲載しました。
Libraさんからはその後、返信も届いていますが、私の返信ができ次第、本人のご了解も得ながら順次公開していきたいと考えています。




【Libraさんからのメール】

はじめまして。Libraと申します。

 2000年くらいからインターネット上で創価学会の教義の問題点について色々と考えを発表してまいりました。ここ数年は、創価学会に対する興味を失っておりましたが、最近、宮田さんの例の学会発表のことを知りまして、少し関心を取り戻しつつあります。宮田説に対する須田さんの反論なんかを見ると、相変わらずだという気もしてきますが。貴ブログもおおむね宮田説支持のようですね。

 【A:日蓮の思想とはどのようなものであったのかを学問的に研究すること】と【B:日蓮の思想を現代においてどのように受容するか(あるいはその価値を否定するか)を考えること】は別の問題なわけですが、AはBの前提となりますね。

 宮田さんは、残念ながら、Aの時点でしくじっていると思います(以下の拙文を参照)。

  創価学会教義の形成の試み

  宮田幸一説批判──日蓮は法本尊のみを本尊としているわけではない
 
 そうなると、Bのレベルで創価学会の教義を再構築するということがいつまでたってもできません。はやくAをクリアしないとだめだとおもいます。わたしとしては、早く、Bのレベルでの議論をはじめたいのですが。

 Bのレベルでいうと、『法華経』はフィクションであって、初期経典(かなりの誇張や神話的脚色があるとは言ってもフィクションではない)と同列に並べて勝劣を問うことはナンセンスです。

 縁起という知見に到達した知的生命体は、インドにゴータマが生まれる以前のこの宇宙にいくらでもいたでしょうから、そういう個体をインスタンスとするクラスを考えることは可能なわけで、それを『法華経』のように「大昔から縁起を説き続ける仏」と考えることもたしかにできるでしょう。なので、『法華経の思想じたいは現代にも通用するとは思いますが、それはあくまでもフィクションとしてでありまして、大通智勝仏は現実にいたんだとか、その昔、インドにあんな巨大な宝塔がほんとに現れたんだとか、三変土田は歴史的事実だとか、そんなふうに考える人はトンデモでしかないわけです。フィクションと現実の区別はつけないといけませんね。

 日蓮の思想を現代に継承する一つの方法としては、『法華経においてフィクションと現実が交錯する「釈迦」という特異点を支点として、「呪術・呪文・迷信・密法の類いを禁止」し、「人間の力を絶した創造主としての神も、また祈祷や呪術に応じて魔力をふるう神秘も、ことごとく退けて」、「一切の不可思議で超自然的なものはすべて排し、捨てる」(中村元三枝充悳『バウッダ・佛教』(小学館ライブラリー80)小学館http://fallibilism.web.fc2.com/028.htmlという方向に転回することです。

 その上で、日蓮の思想の根本の部分は現代においても十分に通用すると主張する。日蓮の本尊は、思想的には「一念三千の法門」ですが、これは心を観察対象として一切諸法の無自性を実感するというやり方です。仏教の本道をきちんとおさえていますね。しかも、自分の心の状態を常にモニタリングしつづける(観心)ということが習慣になるとセルフコントロールが容易になりますから、日常生活の中でふつうに役に立ちます。

 創価学会教義の形成の試みとして、わたしが描いていたロードマップはこのようなものだったのですがいまだにそういう話ができる状況にならないのはとても残念です。

 長くなりましたのでこのへんで。これからも頑張ってください。





【当ブログ管理人の返信メール】

メールありがとうございます。
「気楽に語ろう☆創価学会非活のブログ☆」管理人です。
長文のメール、本当にありがとうございます。実はLibra様のブログは以前から読ませて頂いていまして、非常に興味深くメールも拝読させて頂きました。

以下、思う点をいくつか書かせて頂きます。

まず宮田幸一氏の批判で「日蓮は法本尊のみを唯一の本尊としているわけではない」という指摘はまさにその通りです。
この問題の最大の原因は、日蓮自身の本尊についての定義に一貫性がないということだと思うんですね。
もちろん、私自身のブログの考えでもやや「法本尊としての一念三千理論の解明」ということに主眼が置かれるような印象があるかと思います。確かにそうです。

私自身が止観の運動として日蓮曼荼羅説を考えているのは、止観の修行の捉え直しであり、一つの文化記号論として曼荼羅を捉え直すことを考えています。

ナーガールジュナの空観思想・縁起思想は、丸山圭三郎氏の指摘によればソシュールの言語思想のほぼ先駆であり、ソシュール記号論と重なる部分が多く散見されます。
氏は井筒俊彦の「意味マンダラ」と「言語アラヤ識」思想から影響を受け、「カオスモスの運動」という独自の思想を展開します。


私が止観の修行の場として曼荼羅を捉えるのは、日蓮思想の有効性はそこにしかないのではないかと考えているゆえでもあります。
ナーガールジュナの空観から智顗の止観を捉え直し、そこに諸教が包摂されている世界を考えるならば、他宗門との対話も可能になると思うんですね。


私は別段、何かに固執しているわけでもありませんし、独自に思索をしていきたいだけなんですね。
また何かありましたらご意見頂けたら嬉しいです。
ありがとうございました。