いつもみなさん、ありがとうございます。
実はこれは正確ではありません。
日本で
密教の存在を知り、その請来を望んでいたのは他ならぬ
桓武天皇でした。
遣唐使より
密教の効能などが情報としてもたらされていたため
桓武天皇は
密教に強い興味を抱いていたと言われています。
そこへ
最澄が唐より帰ってきまして、彼は法華
天台宗の教えとともに禅、念仏、
密教等の経典群も日本に持ち帰ってくるんですね。
それらの請来目録の中に
密教が入っていることを知った
桓武天皇はすぐさま
密教の伝法灌頂を希望し、勅文を出します。
「
真言の
密教等いまだこの土に伝ふることを得ず。然るに、
最澄、幸いにこの道を得、まことに
国師たり。宜しく諸寺の智行兼備の者をえらび、灌頂を受けしめよ。」
最澄の留学の目的は当時最高峰の
法華経研究のためだったのですが、
桓武天皇は現世利益のあるとされた
密教に強く関心を持っていまして、
最澄を「
密教を伝えたがゆえに」評価したのです。
ですから
日蓮の言う"朝廷が
法華経に帰伏した"という見解は史実と異なります。
ただ
桓武天皇の期待とは別に、
最澄の
密教は正統系のものではなく、実は傍流の灌頂に過ぎないことが後に(
空海の帰国以降)わかってしまうんですね。
最澄自身がこのことに不備を感じていたことは間違いありません。円仁と
円珍に
密教を学ばせたのはそういう理由なのです。
桓武天皇は
最澄を「日本に
密教を伝えた
国師」として評価し、「
南都六宗」と言われた仏教
諸派に対しては封戸の没収等、圧力を加えています。この背景には
南都六宗が政権に関与する権力を持っていたことが考えられるでしょう。
最澄より伝法灌頂を受けた
桓武天皇は806年に
崩御、
平城天皇が即位したこの年、
空海が膨大な経典群とともに日本に帰ってくることになります。すでに
空海は前年に伝法
阿闍梨位の灌頂を受けており、彼は正統な
密教の教えとともに最新の経典等を多数持って帰ってきたわけです。
これがわかったから
南都六宗は黙っていなかった。つまり
最澄がやったことは単なる傍流の
密教灌頂に過ぎず、
桓武天皇の威光を借りたものに過ぎないとして
南都六宗は一斉に
最澄を批判することになります。
つまり史実から考えれば以下のようになります。
①
最澄は8ヶ月の留学で
法華経を中心にした経典群の研究を主に果たして帰国した。
③806年に
空海が
密教の灌頂を受けて帰国。これが正統なものだと評価された。
という感じになるかと思います。