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さてこのTwitterの議論の中で、改めて理解したのは創価学会の「師弟絶対主義」ともいうべき考え方です。この考え方は創価学会のみならず、アンチ創価学会、また信濃町本部を批判する内部の方に広く散見される考え方かと思います。
つまり池田名誉会長は絶対的に正しく、絶対的に無謬であり、すべての間違いは「池田名誉会長の心を忘れた」ことにあるとして学会中枢を批判する論理です。
で、こういった考え方の淵源は、昭和52年路線が一つのきっかけだったとは言えますが、これと同質の思想は実は日蓮正宗の教義の中にすでに内在しているものだと私は考えています。
「然ルニ即吾レ日興上人嫡々冩瓶御弟子ナル事分明也。故ニ仰末法下種ノ僧宝也。爾来日目日道代々咸タ是レ僧宝也、及門流ノ大衆も亦爾也」
「仏法アリト云ヘ僧アテ習伝ズンハ正法像法二千年過ギテ末法にも伝ルヘカラス云々、又余ガ如キ無智無戒モ僧宝ノ一分也」
(堅樹院日寛『三宝抄』)
つまり日寛によれば「自分のような無智無戒の者も僧宝の一分である」ということですし、代々の法主だけでなく「門流の大衆もまた然り」として、信徒にも僧宝の一分が備わるということになります。
現今の創価学会は教義的にまだ日寛教学を脱してはおらず、それらを認める立場にあります。