気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

「師弟」絶対主義の淵源。





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さて最近Twitterアカウントも開設させていただきました。このTwitterアカウントからいろいろと議論をすることも増えてきました。


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さてこのTwitterの議論の中で、改めて理解したのは創価学会の「師弟絶対主義」ともいうべき考え方です。この考え方は創価学会のみならず、アンチ創価学会、また信濃町本部を批判する内部の方に広く散見される考え方かと思います。
つまり池田名誉会長は絶対的に正しく、絶対的に無謬であり、すべての間違いは「池田名誉会長の心を忘れた」ことにあるとして学会中枢を批判する論理です。


で、こういった考え方の淵源は、昭和52年路線が一つのきっかけだったとは言えますが、これと同質の思想は実は日蓮正宗の教義の中にすでに内在しているものだと私は考えています。




そもそも日蓮正宗は「法主絶対論」を唱えます。法主は法水写瓶、内証を受けているので絶対的な存在であり、無謬であるとする考え方です。
で、これを「師匠」に言い換えたのが創価学会の師匠絶対主義なのでしょう。しかも原田会長など「創価三代師弟の血脈」とまで言うわけですからね。


ところで、大石寺26世日寛の『三宝抄』には次のような記述がみられます。


「然ルニ即吾レ日興上人嫡々冩瓶御弟子ナル事分明也。故ニ仰末法下種ノ僧宝也。爾来日目日道代々咸タ是レ僧宝也、及門流ノ大衆も亦爾也」

「仏法アリト云ヘ僧アテ習伝ズンハ正法像法二千年過ギテ末法にも伝ルヘカラス云々、又余ガ如キ無智無戒モ僧宝ノ一分也」
(堅樹院日寛『三宝抄』)


つまり日寛によれば「自分のような無智無戒の者も僧宝の一分である」ということですし、代々の法主だけでなく「門流の大衆もまた然り」として、信徒にも僧宝の一分が備わるということになります。
つまり日寛の教義によれば、代々の大石寺法主に血脈が通うとすると同時に、信仰心を持つ者であれば信心の血脈は「信徒」にも流れ通うというロジックも展開しているのです。


現今の創価学会は教義的にまだ日寛教学を脱してはおらず、それらを認める立場にあります。
ですから、日寛の教義を「信心の血脈」と捉えて展開することは、本来の日蓮正宗の中に内在していた教義を下敷きにして創価学会が自分たちを「民衆仏法」とか「創価学会仏」とか自称しているだけなのです。


で、それを純粋に「創価三代の師弟の血脈」とか「池田名誉会長への絶対の信」を主張することは、教義的には日蓮正宗の中の教義を単に拡大解釈しただけで、やってることは同じということになります。