読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

思想は動き続ける。





私はこのブログで日蓮正宗を批判し、創価学会も批判します。同時に創価学会内部にある「池田名誉会長を絶対視する師弟不二原理主義者」たちをも批判します。



では何の信仰をしているのかと問われることも増えてきました。
私は自分のやっている信仰活動の具体的な内容をほとんど語りません。
なぜか。


それは私がやっていることを正しいと読者が考えてそれを真似してみても、それは結局信仰のドグマになってしまって、「なぜそのような修行法に至ったのか」という過程を考えない人が出てしまうことを危惧しているからです。



人間は安易に結論を求めるものです。そして創価学会日蓮正宗も安易に"正しい本尊"とか"絶対不二の師匠"とか、絶対的な存在を軽々しく求めます。
その方が信仰の方法論としては簡単ですからね。
確かにそれは簡便になった宗教の便利パックかもしれませんけど、仏教の本質とは無縁のものです。


少しだけ私の信仰観を書くなら、私は龍樹の空観から一念三千概念の捉え直しを図っています。
同時に空海の『声字実相義』から、言語の存在論を提示し、龍樹の空観を基礎にした新たな文化記号論を提案したいと考えています。


龍樹の空観から一念三千の再定義ができれば、止観の修行の体として曼荼羅の意味を再定義できるはずです。


私のこのアイデア井筒俊彦の「意味マンダラ」と「言語阿頼耶識」の概念からヒントを得ています。


井筒俊彦氏は「意味マンダラ」という語であらゆる思想を自身の思想に取り込み、独自の哲学を創出しました。彼はイスラーム思想の世界的権威でしたが、東洋と西洋の思想とを自身の思想の中に取り込んだ稀有の哲学者でもありました。


私が『総勘文抄』の再解釈に拘っている理由は、『総勘文抄』の中にこのような言語思想が底在しており、それをもう一度記号論的視点から読み直すことが、一念三千概念を見直す一つのきっかけになると感じているからです。


それらは私の信仰の思想的課題であり、誰にも勧められるものでもありません。
私は私で自身の修行を完成させるため努力をするだけです。それが釈迦の大般涅槃経での最後の教えであったはずです。


「どこかに正しい本尊がある」というのは幻想です。確かにあった方が便利ですし、信仰としては楽です。しかしそこには安易で簡便な方法論はあっても、真の釈迦の思想は存在しません。
「正しい本尊」があると信じこんで疑うことができない人は、仏教の本質を理解していないことを自ら暴露しているに等しいのです。
大パーリ・ニッバーナ経にあるように「師匠が弟子に遺しておく握りこぶしの中の秘密は存在しない」のです。