いつもありがとうございます。
さて先日のブログで書いたように創価学会の教義としては基本「池田名誉会長」と「日寛教学」しか残っていないと書きました。
「井の中の蛙」
特に創価学会内部の信濃町に批判的な人たちは、基本の教義がこの二つしかないのでどちらかを批判されると突然怒り出すか、ひたすら否定し出すか、そのどちらかしかありません。信仰を客観視できずにトランス状態になる方も少なくありません。
ところで「池田名誉会長」を否定できないのは精神構造的によくわかるけど、「日寛教学」なんてほとんどの人は知らないのでは?というご意見がありました。
確かにそうですよね。日寛の教義として教えられてきたわけじゃありませんから。
1、「祈りとして叶わざるなし」
これは日寛の『観心本尊抄文段』に出てくる言葉です。つまり御本尊に願えばどんな願いも叶うんだという指導は、実は日寛の教義を下敷きにしています。
2、勤行の方便品と寿量品読誦
勤行において方便品と寿量品を読む意義は日寛の『当流行事抄』において説明されています。ですから学会員が毎日やっている勤行の形態は基本日寛教学です。
3、日蓮本仏説
他にもたくさんあります。
数珠の形とか、
人本尊・法本尊の考えとか、
自受持用報身如来とか、
種脱相対とか、
要するに毎日方便品と寿量品読んでる時点で、やってることは日寛の教義と変わらないということです。
追記:
余談ですが、日寛の思想を推し進めると信仰者の純粋な信仰にこそ血脈が通うというロジックが出てくるとは思います。例えば『当体義抄文段』には「我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」としています。
ですから「信心の血脈」を主張し、池田名誉会長を絶対視することが真の信心であるとする考え方は、日寛教学のややボナパルティックな解釈であると考えられますね。