気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

「二十余年」と「三十余年」


いつもみなさん、ありがとうございます。


以前、ブログで戒壇本尊の讃文「二千二百二十余年」が、『御本尊七箇相承』の「二千二百三十余年」と相違していることをブログでも書きました。


戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」



ところが、平成29年3月16日付の『慧妙』には昭和56年の阿部日顕氏の次の発言が掲載されています。


「けれども、三十余年ということの中には、数字に執らわれるべきものではなく、二十余年と三十余年の両意が、付属の上の、大聖人より日興上人への大曼荼羅御顕発の御境涯の中に、すべてが丸く収まっておるのであります。」

だそうです。
意味不明です(笑)。
こんなんで世間から評価されると本当に日蓮正宗宗門は考えていらっしゃるのでしょうか。
それなら大石寺60世阿部日開氏が昭和3年の御本尊書写の際に「二千二百二十余年」と書いてしまって、結果翌年に謝罪文を法主本人が書くはめになってしまったのはどうしてなんでしょうね。


「阿部日開氏の『二千二百二十余年』」


法主の御本尊書写の際に「二十余年」と「三十余年」の両意が収まっているとするなら、なぜ昭和4年2月18日に小笠原慈聞氏は時の法主の阿部日開氏を批判し、謝罪文まで法主が書く事態になってしまったんでしょうか。
では阿部日開氏が「二千二百二十余年」と書写したことは正しかったのでしょうか?
それならそれを批判した小笠原慈聞氏は間違っていたのでしょうか?
要するにそういう過去への反省・総括をする姿勢が、日蓮正宗宗門には全くみられないことが問題の本質なのではありませんか(笑)。
過去を反省しないところは創価学会とそっくりです。
阿部日開氏は謝罪文中でこう書いてますよ。


「御本尊二千二百二十余年並に二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子旦那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである。
以上 
六十世 日開 花押」


ですからいい加減に、日蓮正宗宗門もきちんと自分たちの過去を反省して来なかったということを認めた方がよいと思うんですよ。
そんな今さら後付けのように「二十余年と三十余年には甚深の意義が」なんて言われても、過去の阿部日開氏の謝罪の件があるんですから、なんら説得力を有しないと思います。


おそらく昭和56年の阿部日顕氏の発言は、父である日開氏の名誉回復の意味もあったと思うんですね。
それなら時の法主である日開氏を批判した小笠原氏は批判されて然るべきなのではないですかね。それなら小笠原慈聞氏は「表面層にのみとらわれた偏見」で時の法主を批判した"大謗法"の人なのではありませんか?(笑)


もっと言ってしまうと『御本尊七箇相承』には次のように書いてありますよ。

「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」

つまり「三十余年の間」を「略し奉ること」は「大僻見不相伝の至極なり」なんですよ(笑)。『七箇相承』にここまで書いてあるのに「三十余年」は変えても問題はないんですかね?(笑)
間違っているのはどっちなんですかね?
『七箇相承』が間違いなんですかね? それとも「二十余年」と書かれた戒壇本尊の方が間違いなんですかね?
もはや笑うしかないですね☆



追記:
で、問題はこれだけではないんですけどね。
『御本尊七箇相承』では「日蓮御判と書かずんば天神地祇もよも用い給はざらん」としていますが、元弘3年10月13日の日目書写本尊(柳目妙教寺)および正中3年の日目書写本尊(小泉久遠寺)では「日蓮聖人」となっていますけど、これはどういうことなんでしょうかね?
要するに日目在世中に『御本尊七箇相承』は存在しなかったんじゃないんですかね? 
まさかまたお得意の「両方に甚深の意義がある」なんて言うんですかね(笑)。
要するに「日蓮御判」の件も、「二十余年」の件も、「若悩乱者頭破七分」の件も、御座替本尊との相貌の相違の件も、対外的になんら説得力のある回答もせず来てしまった、日蓮正宗宗門の姿勢に問題の本質があると思うんですけどね。