気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

一念三千は即身成仏の種子ではない。





いつもありがとうございます。



『開目抄』では「一念三千の成仏」ということが説かれ、一念三千が「文の底にしづめたり」とされています。

一念三千が法華経の文の底にあることによって、法華経における即身成仏が理論的に可能であるとする根拠は、一念三千が十界互具を含むからなのでしょう。つまり十界互具があるから凡夫にも仏の命が具わるという理屈です。
もしそれだけの理由で、一念三千を法華経成仏の単なる種子だと考えていたのなら、日蓮の天台思想の理解は浅薄であると言わざるを得ません。


私の立場はそうではありません。
一念三千を固定された概念として定立する事態は回避されなければなりません。そもそも天台智顗は一念三千概念を『摩訶止観』においてただの一度しか説明していません。
智顗にあっては一心三観こそが大切であり、十乗観法の修行こそ大切であったはずです。そして叡山出身の日蓮がそのことを理解していないとすれば、それは批判されて然るべきでしょう。


現在の創価学会が言っているように法華経の文の底に"生命の永遠の法"が秘し沈められていて、その一念三千を単なる"成仏のための種子"なのだと日蓮自身が考えていたとすれば、その部分は批判されるべきだと私は思います。またそれこそが日蓮思想の限界なのかもしれませんね。
少なくとも『開目抄』の記述は妙楽湛然ばりの概念化に近く、一念三千を一つの概念として固定化するような表現、つまり智顗の曲解になっていると考えます。


天台智顗の観念観法の修行は『唱法華題目抄』によれば「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず」として、日蓮は一心三観の修行を優先しませんでした。題目を唱えることが法華における成仏の種子であって、それを直裁に唱えることが末法の修行であると考えたのです。



しかしながら、それは一念三千の理解を表面的、浅薄なものにしてしまい、ひいては一念三千の運動としての側面を見失わせることになると思います。
ですから、日蓮の考える唱題行をもう一度智顗の一念三千概念から再定義する必要性を感じています。
そうでなければ、かえって日蓮の思想の本義を見失わせる結果になりますし、日蓮の現代における有効性も失ってしまうと思います。


智顗の『摩訶止観』における一念三千説は空性の説明にその真意があるのであって、それを湛然以降の天台教学に捻じ曲げてしまうと、一念三千説が法華経における即身成仏の強引な根拠にしかなり得ず、単なる法華経の曲解にしかなり得ないのです。


智顗の十乗観法の修行は空仮中の三諦を直裁に見るというものです。『天台小止観』における観心は、空諦から仮諦に至り、最後に中道に至るものですが、『摩訶止観』では円頓止観と言って最初からその真実の相をそのままに見ることとされています。
その空観には龍樹(ナーガールジュナ)の思想の中観からの影響があります。ただナーガールジュナの中道を単に法華経大乗戒壇のための根拠とするだけなら、それは法の"実在化"になってしまい、本来の釈迦の思想であった中道の考え方とずれてしまうことになります。


私がナーガールジュナを評価する理由は、釈迦の本来の思想こそが"中道"であり、一切は消え去るゆえにいかに生きるべきかという問いこそが中道・すなわち本来の釈迦の教えであるということであって、そのことをナーガールジュナは理解しているからです。
ですから『十住毘婆沙論』における彼の浄土思想はいかに生きるべきかという問いに対する彼自身の一つの答えとして理解されるべきなのだと思います。


大乗は本来非仏説であり、釈迦の直接の教説とは言えません。
ですから大乗に釈迦の思想は存在しないと主張することも自由です。歴史的なゴータマ・シッダールタに興味があるなら、スッタニパータ等を読むのが一番原始仏典に近い思想になるはずですからね。
ただ私の場合は、大乗、北伝仏教の流れの中にそのような釈迦の中道を見ようとした派が存在し、その中で大乗の基礎を作った人物としてナーガールジュナを評価するゆえに、その思想から日蓮の限界を見ることが重要であると考えています。



追記:
創価学会を批判し、日蓮正宗を批判して、日蓮本人に戻りさえすれば真実は手に入るのか、私はそれも違うと思います。
屹立した日蓮という人物の人格は規範とすべきであったとしても、日蓮の教義の限界もありますので、日蓮の思想の再評価と批判が必要だと私は考えています。
それには日本天台宗の批判も射程に入らなければならないでしょう。日蓮系教団が分裂を続ける一つの遠因は日本天台宗の分裂にもあるのかもしれませんね。