気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

自身の信仰を築く旅。





いつもありがとうございます。


さて、最近本当に辟易してしまうのですが、


現今の創価学会が形骸化しているとして批判する方はネットに多数いらっしゃいます。
ところが、その多くの方が教義や思想が単に原理主義的に日寛教学を踏襲しただけのものになってしまうんです。以前もブログで書きましたけどね。

創価学会内部の教義的な分裂について」


たとえば「日蓮大聖人は久遠元初自受用報身如来だ」という主張です。
申し訳ないんですが、日蓮が「久遠元初報身如来である」とする日蓮真蹟文献は存在しません。なんら信憑性のない『百六箇抄』とか『本因妙抄』を盲信している思い込みかと思われます。日蓮正宗の教義と同じですから、そう思われるなら日蓮正宗に行く方が良いでしょう。


あと多いのが弘安2年の大御本尊が日蓮から日興に相承されたというもの。
そんなの単なる創作された神話です(笑)。

そもそも日興が身延を離れた際に戒壇本尊を持ち出したということ自体が考えられません。記録にもありません。

『原殿御返事』にも戒壇本尊への言及は一切ないですし、弘安2年の戒壇本尊が存在したという記録も存在しません。

ですから大石寺59世の堀日亨氏は『身延離山史』で「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない」 としています。

つまり堀日亨氏は、日興が身延離山に際して戒壇本尊を持ち出した可能性を否定しています。

ですから少なくとも日興の身延離山の時点で弘安2年の戒壇本尊は存在しなかったと考える方が自然です。



戒壇本尊については、すでに犀角独歩氏の画像解析によって弘安3年の日禅授与本尊とパッチワークであるという結論が出ています。

「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」

また『御本尊七箇相承』と戒壇本尊との相違点とその矛盾についても日蓮正宗の方は全く答えられない有様で、せいぜい「内証の問題」と述べるくらいしかできません。

戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」


創価学会の内部で、現今の教団に疑問を持ち、その原因を「創価学会が邪教化した」とか「教団が池田名誉会長の心を忘れた」とか、情緒論で立て直しを図ろうとする方々もいます。
私から言わせればそれは違うと思います。そうではなくて、そもそもの創価学会の思想も日蓮正宗の思想も根本的に間違いであり、日蓮の教えでも何でもなかったのです。
そして日蓮の教えもまた限界のあるものなのです。
池田名誉会長はその間違った日寛教学を根本にして、指導してきてしまったのです。
ですから、創価学会を根底から改革するなら、池田名誉会長その人もまた批判し、乗り越えなければいけません。


だから私は日蓮そのものの限界と有効性をきちんと真蹟文献から判断して考えたいだけです。
創価学会の方も日蓮正宗の方も多くは、思想の特定の型にハマってしまって、そこから抜け出して思考することができなくなっています。


挙げ句の果てに「宗門にも創価学会にも真実の教えが存在しないのなら我々はどうしたらよいのか」「だからこそ私たちの胸中の肉団にある御本尊を信じる」等のわけのわからない精神論に走ってしまうんです。
申し訳ないけど、それ単なる思い込みです。
どこにも正しい法なんて存在しません。
永遠の常住の法なんて存在しません。
それが大乗仏教の出発点です。龍樹の教えとはそういうものです。

龍樹も知らず、世親も知らずに、仏法を知った気になって仏法を論じようなんて「おこがましい」にもほどがあります。
私はかつて何も知らなかったのです。日蓮正宗創価学会の教義を信じて、それが仏法の本質だと信じて疑わなかったのです。
けれど創価学会日蓮正宗で教えられている教義がいかに浅薄であるか、そして特定の一面的な文献しか読まされていないということに気づき、己れを恥じました。
同時に自身がいかに何も仏教を知らなかったのかを痛感しました。
そんな自分を恥じ、ゼロから学ぶことにしたのです。


私は悩みました。一番の悩みはこれを私だけの問題にして沈黙するか、それとも誰かに伝えるかという点でした。
私の信仰の問題ですから、私の中だけで解決してもよかったのです。
ただいろいろ考えて(考えるのに数年を要しました)ブログにして書いてみることを決断しました。
運ちゃんさんの「想学談林」サイトにも少なからず影響を受けました。本当にありがとうございます。また自身の仲間たちにも助けられました。長井秀和さんにもいろいろ話を聞いていただいています。いつもありがとうございます。感謝しています。
信仰とは自分の中に築いていくものなのだということがわかりました。
誰かの借り物の教義は安易ですし、楽です。
けれど日蓮という人はそれをしませんでした。
自分で自分の信仰を築き上げ、理想社会の構築に情熱を傾けた人です。
当然、日蓮の思想には限界もあります。ですから日蓮そのものを否定して日蓮から離れることも信仰の自由だと思います。


私のこのブログは、私の中の信仰を築き上げる一つの旅みたいなものと考えています。
私のように考えるのも自由です。考えないのも自由です。
答えは自分で学び、自分の限界を知り、自分を恥じ、自分の中に構築していくものだと思います。


追記:1
あ、そうそう。「とうの昔に破折済み」なら、具体的に言及しないと説得力がないと思います。
それから御座替本尊と戒壇本尊の相違については、ブログで回答しましたけど、これに対しては何もお答えできなかったと考えてよろしいでしょうか。
本当に日蓮正宗の一部の信者の狂信ぶりには困ったもので、論理的に矛盾していることも認めることができないのはいかがなものかと思います。

追記:2
それから「日蓮の遺文さえまともに読めない人たちが龍樹世親など読むわけがない。自分が学者だからとて人にも学者になれと言うのは無理」というのはよくわかりますよ。
それなら語らなければよいのです。知らないことをどうして知ったように語れるのでしょうね? 知らないことは語らなければよいし、そんなことに興味なんて持たなくてよいのだと思います。
龍樹も世親も知らないなら仏教についてなんて語ってはいけませんよね。ちゃんと学んでいる方に失礼かと思いますよ〜☆