読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

教学力の低下について。




創価学会だったら、たとえば教学試験で『立正安国論』とか皆で集まって勉強するとして週一回のペースとかで3ヶ月とか半年くらいかけて勉強するんですかね?

立正安国論』なんて全然長くないですよ。30分もあれば通読なんてできるでしょ?(笑)
御書あけてくださいって。何ページもないっすよ。


創価学会の教学力の低さは本当にどうしようもなくて、教学試験で『開目抄』とかやるにしても全編やらないんですよ。たいてい下巻の終わりの方の有名な文が出てくるところを中心にやるだけで、たったそれだけなのに何カ月もかけたりするんです。
それだけのことなのに担当者自身が支部幹部とか本部幹部クラスにもかかわらず「いや〜、教学試験の準備って大変だなぁ」なんて平気で呟いたりします(笑)。
いったい何年創価学会で教学やってるんですかねぇ。それなのに『観心本尊抄』ひとつまともに通解さえできないんですよ。
それで「世界一の生命哲学」とか自称できるんですかね。感覚を疑います。戸田氏が「剣豪の修行の如き」「御書の研鑽」とか序文に書いてますけど、どこいらへんが「剣豪の如き」なんでしょう。




その結果、教学力のない人が幹部になるもんだから指導も力任せになります。「折伏の勢いが出ない。各地区で10時間唱題会とかやって勢いを作ろう」とかわけのわからない打ち出しをして、下の者が疲弊するだけという(笑)。



何のための教学なんですかね。
それだったらもう日蓮なんて捨ててしまって三代会長主義でいけばいいじゃないですか。
日蓮を中心にやるんなら、ちゃんと研鑽してもらいたい。それができなくて中途半端になるなら日蓮門流なんて言うのも恥ずかしい。他門流からの物笑いの種になるだけですよ。




追記:
私の教学関連のブログ記事が理解できない人も少なくないと思います。まあ私の書き方が悪いせいで(笑)、わかるように書いていませんからね。わかる人間にしかわからない書き方をしています。理由はめんどくさいからです(爆)。
ただ教学ってそんな簡単にわかるもんじゃありません。自分でまずはしっかり読むことから始めなければいけないんじゃないんですかね。家に御書だけあっても、編年体は持ってない、六巻抄も持ってない、御書講義録も読んだことない、富士宗学要集も持ってないのなら、教学にさほど関心がないってことなんじゃないですかね。
本当に教学をきちんとやりたいっていう方ならちゃんと読みますって。私はそうやって自分より優秀な方に質問していろいろ読んで学んでいるだけです。他門流に私より優秀な方はたくさんいらっしゃいますし、私なんて大した知識もありません。辛嶋静志さん、宮田幸一さん等々、教学的に優秀な方なんて山ほどいらっしゃいます。
要は創価学会のなかに本当に教学を学びたいとい人がいないってことなんじゃないのかなぁ。別に私にこれを聞きたいという質問も出ませんし、私に尋ねたいと思うこともないようなので。私は私で自分が疑問に思うことをどんどん追求していくだけです。
教学というのは常に向上を目指して学んでいくものです。完成されたものなど最初からないのです。完成されたものが前提としてどこかにあってそれを学ぶことで教学が完成されるなんて考えているなら、日蓮正宗にいけばよいのです。常住の法を盲信して安心すればよいだけですから。
たとえば「運ちゃん」さんのブログなどはやはり学ぼう、求めようとされていますよね。それこそが屹立した信仰者としての本来の姿勢なのであって、学ぼうと思わないのなら教学なんて必要ないんだと私は思います。単なる興味本位でしかないならグーグルで検索すればよいだけですから。
厳しいことを書いているようですけど、真実を知りたいと思うなら学ぶものです。で、別に学ぼうと思わないのならわからなくてもいいではないのかなぁということです。
大切なことは自分が知りたいと思うことを学ぶことです。私が考えるように考える必要なんてありません。自分はどう思うのか、自分はどう考えるのかということです。自分が追求したいと思うことの中に日蓮の遺文がないのなら、無理して日蓮を学ぶこともないと思いますよ。学んでいないということは学ぶ必要性を感じていないということだと思います。