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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

ここ最近遠ざかるアンチ創価派。




「アンチ創価学会」の方は、私が教学についてブログに投稿しても、最近はあまり語りません。

創価学会やら何やらいろいろ批判しつつも、私が教学について投稿するとそれに対して以前よりもあまり語らなくなってきたように感じています。



私は当ブログについて言及しているほぼ全てのツイートやブログ、インターネット、SNS上の記事について目を通していますし、ほぼ全て読んでいます。ただ単に名前をあげて論及していないだけです。
毎日全部見ていますので、以前は私のブログ記事についていろいろ書いていた人が急に書かなくなったことは興味深いです。




まあ語れないこと、わからないこと、知らないことは語らない方が自然ですよね。
L・ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において「語り得ぬものについて人は沈黙しなければならない」と語りましたが、まさにその通りで、わからないことについて人はわかったように語ってはいけないと私は思います。



だからたとえば『御本尊七箇相承』と戒壇本尊の相貌についての矛盾点なんてこのブログで指摘されても法華講の方なんてまともに答えもしない。沈黙するしかないんですね。「私たちが間違っているのかもしれない」とか理性的な判断をすることさえできない。まして龍樹の『十住毘婆沙論』や、日蓮書写の『五輪九字明秘密釈』についてなんて知らないから考えることもできない。『戒体即身成仏義』とか『不動愛染感見記』については狂ったように偽書と叫ぶくらいしかできない(笑)。それなら法華真言未分の時期の『守護国家論』とかも偽書扱いしないとダメなんじゃないっすか〜(笑)。まあ『守護国家論』は身延曾存ですけど、その点についてはまたも沈黙するしかないという(笑)。
たとえばこのブログで書いた、法華経薬王品での阿弥陀仏が出てくることについても教義的にどう考えるのか全く説明ができない。広宣流布が託されたのは地涌の菩薩ではなくて宿王華菩薩であるはずなのに、この点についても全く説明ができないんです。まあご存知ないんだろうとは思うんですが。




私はここで常住の法を否定しています。池田名誉会長の師弟も否定しますし、日蓮正宗のわけのわからない血脈も否定します。戒壇本尊も否定します。そんなもん日蓮の教えであるはずないじゃないですか。
あらゆる権威に依らず、己の信仰に忠実に生きることだけを考えています。
少なくとも釈迦は何か特別な教えとか教派を作ったことはありません。日蓮はあらゆる権威に依ることをしませんでした。
私もそうありたいと願っています。できていないのかもしれませんけど、それを理想として信仰を貫いていきたいだけです。



何か特定の宗派について、たとえば日蓮とか天台とかについて語りたいなら、日蓮についてある程度知っていることを語らなければならないでしょう。そしてそれがわからないなら評価については保留すべきなのだと思います。




以前は熱心に当ブログの記事を読まれていたアンチ創価学会の方、とりわけ日蓮正宗の方も最近は減ってきました。正直少し安心しています。
だってそういうアンチの方って創価学会への憎悪とか怨念で動いているように感じるんです。「俺は創価が憎くて仕方がない」とか「タワケが!」とか「アホ」とか「殺してやりたい」とか平気でTwitter上で創価学会を罵ってますよ。宗教者として信じられません。口の悪い創価学会の活動家と大して変わりません。どんなに創価学会に怨みがあったって「犬畜生」とか「バカ」とか相手を罵れば結局自分もまたそういう醜い言葉を使うだけの人間になるということがなぜわからないのでしょうかね。そんなの悪口を尽くすだけの最低の人間で、創価学会と同類です。しかも教学についてはほとんど何も語れない(笑)。他宗から笑われていることに少しは自覚的になったらいいんでしょうけど。


まあ、そんな人たちがこのブログから遠ざかってくださって、管理者としては安堵しているところです。彼らの宗義からすれば、こんなブログ記事を読む方が"謗法"になりかねないでしょうから、読まない方が賢明でしょうね(笑)。



たくさんの方がブログにアクセスしてくださるのはとてもうれしいです。けれどやっぱり信仰者として誠実に正しい信仰を求める人たちにやっぱり読んでもらいたいなぁと思っています。
そういう意味で今のブログのアクセス状況は健全な読者に戻りつつあるという感じがします。



健全な読者の皆さん、いつも本当に閲覧いただき、ありがとうございます!(笑)





追記:
そういえば『富士宗学要集』の宗史部かどこかに『不動愛染感見記』について言及されている文献がありましたが、その再検討とかはどうなんですかね。確か堀日亨氏は何も注をつけてなかったはずですから、堀日亨氏は『不動愛染感見記』の信憑性について一定の評価をしているということなんでしょうか。確か日精の『富士門家中見聞』について、事実と異なるとして山ほど注記をつけていたはずですからね。堀日亨氏を評価する自分としてはちょっと気になったところです。