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創価学会の非活メンバーによる語り

『一代聖教大意』から見る日蓮の一念三千説の理解。






いつもありがとうございます。
私がこのブログで「一念三千の日蓮の理解は天台智顗ではなく妙楽大師湛然の説に由来する」ということを以前書きましたが、そのように考えるのはなぜかと思う方もいらっしゃるでしょう。
日蓮の『一代聖教大意』という述作がありますが、そのことはここに書かれてあります(他にもあるんですけどね)。
『一代聖教大意』は真蹟が現存しませんが、保田妙本寺に日目の写本が現存していまして、録内にも入っていますので、比較的信用性の高い遺文かと思います。


この中で次のように日蓮は述べています。



「問うて曰く妙法を一念三千と言う事如何、答う天台大師・此の法門を覚り給うて後・玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説き給いしかども此の一念三千をば談義し給はず、但十界・百界・千如の法門ばかりにておはしませしなり(中略)此れを妙楽大師末代の人に勧進して言く『並に三千を以て指南と為す◯請うらくは尋ね読まん者心に異縁無かれ』」

「止観の五に云く『夫れ一心に十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界には即ち三千種の世間を具す此の三千一念の心に在り』文、妙楽承け釈して云く『当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に偏し』文、」
日蓮『一代聖教大意』創価学会版御書全集、402ページ)



簡単にわかりやすく書きますと、

「天台大師はこの一念三千の法門を悟ってすぐに述べなかったんです。わずかに摩訶止観の中にちょっと出てくるだけなんですけど、その文を受けて妙楽大師は『まさに知るべきだ。これこそ身土不二の一念三千である』と解釈したんです」

ってことです。

要は天台智顗は明確に「一念三千」とは言ってないんです。言ったのは妙楽湛然なんですよ。
で、ここ読んでわかるように、日蓮の一念三千説の摂取は湛然の解釈を通じて得たものなんですよ。
ですから智顗の思想とはやや温度差があるんです。ですから龍樹の思想とも当然温度差が出てくるわけです。


私の考える日蓮の限界は実はこのへんなんですね。もちろん時代的な制約ということもありますけど、日蓮最澄の後継者として比叡山の法華一乗思想の再興を考えていたことはわかります。けれど日蓮法華経における即身成仏の根拠を湛然由来の一念三千としてしまったんですよ。


このため天台智顗の『摩訶止観』が思想的に持っていた一念と三千との絶えざる変転のような運動性は失われ、教義としての湛然の一念三千説が『開目抄』において即身成仏の法華経の原理として使われてしまったのです。悪く言ってしまえば即身成仏概念の"盗用"です。それを根拠づけるのに湛然の一念三千説を「文の底にある」とする考え方は私にはあまり説得力を感じないんですね。
まあ日蓮は『立正安国論』を読む限り、恐らく比叡山の凋落ぶりを見て法華経思想の再興を目指していました。ですから中国天台宗中興の祖とも言うべき湛然を根拠として立論することは故なきことでもありません。それらは日蓮自身の宗教的使命感からなされたものだと推察できます。


ですからそこの部分がまさに日蓮の思想的な限界なのだと言うことです。
現代における日蓮の思想の有効性がもしもあるとするなら、それは曼荼羅における諸教の包摂性であり、法華経の題目の下に一切経を位置付けようとした包摂性の根にある真言曼荼羅の理解にある気がします。





追記:
私は別に日蓮が正しいと思っていません。
もっと言ってしまうと、法華経の中に真実があるとも思いませんし、釈迦の中に真実があるとも思いません。
そうではないのです。龍樹が指摘したように絶対的な真実の法というものは存在しないのです。どこかに偉大な三大秘法みたいな法が存在するなんてそんなのは幻想に過ぎません。
釈迦の教えとはそういったことを全て否定し、自らを灯明とせよということだったのではありませんか?
創価学会から日蓮正宗に行っても、保田妙本寺に行っても京都要法寺に行っても真実の教えは存在しません。日蓮宗身延山にも別に真実の教えなんて存在しません。当たり前のことですが、比叡山に行っても別に真実の何かがあるわけでもありません。
真実の偉大な法が絶対的に存在するというのは説一切有部の考え方であり、その欺瞞性を徹底的に喝破したものこそ龍樹でした。
偉大な三大秘法が存在するというのは幻想です。そのことに早く気づき、自らを灯明とし、自らの信仰の道に生きることを選ぶべきだと私は思います。
私が考えるように考える必要は別にありません。私の考えが正しいなんて私自身思っていません。検証をし、批判を受け入れ、より深い解釈へ常に更新されるべきですし、思想の定点に止まるべきではありません。
思想は教理化して固定化した瞬間から既成の権威となりドグマ化するものです。
私が考えることを教えても構いませんが、それをただ単に受け入れるだけなら間違った教えになりかねません。単なるドグマと堕するからです。
創価学会の方も日蓮正宗の方も、何か絶対的なものを求めて安心したいのかとは思いますが、どこに行っても真実はありません。
真実を自らの内に求めて、自らの信仰を形成していかなければなりません。そのことに多くの方が早く気づいてほしいと私は願っています。