気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

「アンチ創価学会」のこと。





創価学会の会員さんでも未活や非活メンバーになったり、また脱会したり、日蓮正宗に行ったりと、いわゆる「アンチ創価学会」になる方もいます。



それはそれで自由なんです。
ただなんか「アンチ創価学会」って「アンチ巨人」みたいな感じがするんですよね(笑)。
巨人ファンとか野球ファンもいますけど、「アンチ巨人」なんて言われる人たちは巨人が負けると気分がいい(笑)。巨人の不満をぶつけてジャイアンツが負けると美味しい酒が飲めるという精神構造になっています。
つまり「アンチ」なんて言っているだけで、本質的には「巨人ファン」と同義なんです。



まあそれはそれでもいいんですけど、私がここで言いたいのは「アンチ創価学会」って言われる人たちもそうなっていないですか?ってことです。
どんな思想であっても自由ですけど、結局創価学会という中心に寄生してやいのやいの騒いでいるだけの精神構造になっていませんかってことです。



思うに、こういう精神構造って日本という国に特徴的な感じがします。
例えば55年体制下の日本社会党がまさにそうでしたよね。さんざん自民党を批判しておきながら、村山政権下では自民党とくっついて「自衛隊合憲!」なんて言ってしまった(笑)。つまり55年体制自民党批判は単なるポーズで「アンチ自民」に過ぎなかったわけです。
現在の民進党も本質的には「自民党に公認されない人たちの集まり」なのであって「自民党へのルサンチマンをぶつけている存在」に過ぎないと私は考えています。
この「中心を批判しつつも実は中心を依拠としている」という精神構造が日本に特有なものなのか、あくまで私見なので何とも言えません。社会学的な分析が必要な気もします。



まあどう考えるかは自由です。
私は小難しいこともこのブログで書いていますが、別に龍樹にも世親にも関心がないなら大乗仏教なんて捨ててしまえばいいんですよ。
関心がないなら語らなければいいんです。
関心があること、興味があること、自分が好きなことを語ればよいわけです。



私自身もこういうブログを書いているので、そういう「アンチ創価学会」というスタンスを無意識に持っているのかもしれませんね。ただ私は龍樹の空観に非常な興味を抱いています。ですから大乗仏教の徒としてアビダルマ、説一切有部の法の常住説に対して、そもそも本質的な実在を前提とした縁起は存在し得ず、互いに消極的な事項の差異があることでしか本質的な意味は存在し得ないとした龍樹の空観は、大乗仏教に新しい思想を与えたものだと思います。また龍樹の空観は言語思想、フェルディナン・ド・ソシュール以降の記号論とも通底すると私は考えています。
そんなわけで、私は龍樹からもう一度日蓮思想を考えることはできないかとやってみて、『総勘文抄』や『当体義抄』等の最蓮房宛の一連の述作に流れ着いたわけです。
けれども周知の通り最蓮房宛の述作は全て真蹟が存在せず、しかも内容は中古天台宗の法門についての内容がほとんどなんですね。
そこで私は「即身成仏」概念に注目しつつ、日蓮の即身成仏思想が台密真言の影響下にあることから考えようとしています。
現在の私の関心はむしろ法華経の浄土思想にあって、鳩摩羅什や龍樹の浄土思想について辛嶋静志氏等の論考を読んでいるところです。




つまり私がここでやっていることは「日蓮の思想の限界と有効性の射程」を測ることです。
で、わからない方や興味がない方は読まなければよいだけなんです(笑)。
実際、わからない方はこのブログからだんだん離れているようですし(笑)。
私は「わからないこと」を「わかったように評価する」人をあまり評価しません。
誠意ある人間とはわからないことに対して素直に「わからない」と認める人なのだと思います。そしてわからないなら評価は保留すべきなのだと思うんですね。
知っているかのように「日蓮の思想なんて意味がない」とか「龍樹を学んで何の意味があるんだ」とか言う人は私にとってはどうでもよい人です。
自身の無知を自覚するからこそ思索も深められるはずですし、本来信仰者とはそのような謙虚さと敬虔さを持つべきものだと私は考えています。それがない人は私には本当にどうでもよい人たちです。そしてそのどうでもよい人たちは創価学会日蓮正宗以外に、「アンチ創価学会」の方たちの中にも少なからず散見されるような気がします。