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創価学会の非活メンバーによる語り

龍樹の「空」と日蓮の「一念三千」






いつもみなさん、お読み頂き、ありがとうございます。
さて今日の投稿はちと難しい、龍樹の「空」概念と智顗や日蓮との温度差のことです。







確かに「龍樹の『空』概念と、智顗や日蓮の『空仮中の三諦』とは繋がらない」という意見があるのは頷けるんですね。ここで思い出されるのが、龍樹は説一切有部の「我空法有」という概念に反論しつつ『中論』において「空」概念を編み出していったことです。
 

説一切有部の考え方では、我や物としての存在は否定され、ただ個々の法のみがあることになる。それを「我空法有」の立場と言いますが、日蓮の一念三千概念はこの空概念に近いと言えます。
その理由は、日蓮の一念三千概念の摂取が天台智顗由来というよりも妙楽湛然由来のものであり、天台宗教理を確立した湛然の概念として一念三千を考えているがゆえに、空概念は説一切有部の常住という考え方に近いということが言えます。


私見に過ぎませんが『摩訶止観』を読む限り、智顗における「一念三千」の考え方は湛然よりも龍樹の考え方に近いと考えています。むしろ概念としての一念三千は湛然による教理化によって生まれたもので、智顗そのものは実は「一念三千」という言葉を実際は使っていません。


ですから、日蓮が「一念三千」という言葉を多用するのは湛然の『止観輔行伝弘決』の影響が強いのです。ここで妙楽大師湛然は「一念三千」を天台智顗の「極説」とまで持ち上げてしまいました。そこから日蓮は智顗の思想の理解と摂取を行なっています。
『開目抄』を読めばわかるように、日蓮は「一念三千」を法華経の「文の底にしづめたり」としています。ここからわかるように日蓮法華経における万人の即身成仏の原理を「一念三千」に見ました。


ここからも推察できますが、これはあまりに安易な結論なんですね。そもそも法華経そのものには原理的な即身成仏は説かれていないわけで、即身成仏を原理として説いたものを根拠にしたいなら華厳経を根本にするか、あるいは空海の『即身成仏義』を根本としなければなりません。本来「即身成仏」という語は空海の造語であり、「即身成仏」を主張するためには密教の教義の摂取が前提としてなければならないわけです。
しかし日蓮は遺文を読めばわかるように、最澄の思想的後継者を自覚していました。最澄が像法時代の法華経の先駆者であって、自身は末法における法華経の体現者であると考えていた節が見られます。
最澄の後継者を自認するなら、当然法華経を根本とする必要があります。伝教大師最澄比叡山において法華経根本戒の総合仏教を目指していましたから、それを理想として諸教を法華経の題目のもとに包摂しようと試みたのでしょう。


そのための思想的原理が湛然由来の概念としての「一念三千」であり、その中に含まれた「十界互具」なのだとして、それを引用した根拠が「衆生の中に仏の命があることを十界互具は説明し得るから」なのだとするならば、それは日蓮の安易な結論であり、やや牽強付会というか湛然解釈に偏り過ぎた結論であると私は考えます。


私の考える日蓮の限界は実はこの部分なのであって、この「一念三千」を本来的には龍樹の考える「空」概念として依拠とすべきだったと思うんですね。
その時に初めて戒律としての三大秘法の戒の意義が生きてくるんだと思います。



日蓮の思想が法華経のみを絶対視し、他宗を批判・排撃するものであるとするなら、その現代的意義を見出すことは難しいと私は感じています。
そうではなく、諸教を法華経の題目の下に包摂しつつも、その根本に本来の智顗の考えた空仮中の三諦があり、その本質に龍樹の「空」概念があると捉えた時に、初めて日蓮は現代において戒として教えの意義を持ち、有効性を堅持し得るのではないかと考えています。