気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

信濃町と大誓堂の聖化。





当ブログにお越しの皆さま、お読みいただいてありがとうございます。




ところで、まもなく池田氏も鬼籍に入る可能性が高く、信濃町はせっかちに「信濃町の聖地化」を進めている感じがします。「広宣流布大誓堂」や「創価学会仏」の制定などがまさにそうですね。
自分たちの教えを正当化するものが池田名誉会長しかいないので、死後には場所そのものや教団そのものを聖化しないと論拠が立たなくなるということなのでしょう。




でもそんなことまでして維持しなければいけないものって何なのでしょうか。
「私たちは正しいんだ」「我々こそ正義なんだ」なんて言っている人たちが私には一番信頼なんておけないと思うんですけどね。
論法としては、件の3人組の「我々こそ正義なんだ!」という論調とさして変わらないように私の目には見えます。




私は自分の論が正しいのかどうかなんて、正直わかりません。
いちおう今の時点で思うこと、見たこと、知っていること、感じること、考えることをただ素直に書いているだけです。批判して頂いても構いませんし、異論があって当然です。



私は思想的な定点に留まることに全くこだわりを持っていません。
常に解釈をして考え直す。概念はそもそもの最初から絶対的なものとして存在しているのではありません。それこそが「一念三千」の本来の意義でしょうからね。
必要がなければ日蓮からも離れたっていいんだと思うんです。




釈迦が説いた教えは本来宗教でさえなかったのだと思うんですよね。つまり人がどう生きるべきかを説いて「自らを灯明とせよ」と説いたのが釈迦だったと私は考えています。




北伝仏教諸派の祖であるナーガールジュナ(龍樹)を私が評価する理由もそこにあります。
絶対的に存在する本質とか、宇宙を貫く根本法とか、そんなものの実在を根底から否定して中論を説いた、その思想こそ釈迦の真の教えだったと私は考えるわけです。
大乗非仏説はすでに定説です。ですから漢訳仏典を否定するのもゆえなきことではありませんが、私は大乗仏教運動をそのような絶対化に対する否定だと考えています。そしてその思想的運動こそが釈迦の本来の趣旨に沿うと考えているだけです。




ですから絶対的なものは存在しないというのが私の立場になります。
平成3年頃に起こったいわゆる宗門問題を創価学会側は「創価ルネサンス」と捉えました。
一切の化儀から離れて、本来の趣旨で仏教を考えていくという意味で当時の私は考えていました。
けれど実際には創価学会日蓮正宗の教義から脱することもできず、挙げ句の果ては日寛書写本尊を根本とした日寛教学の受け売り、そして水谷日昇氏の書写本尊を根本にして大誓堂という聖地信仰に返ってしまいました。



思うに「御本尊」とか「教学」とかいうものは、自分たちの教団の正当化、聖化のために存在したもので、御本尊や教学が有名無実になってしまった今となっては「場所」や「土地」を聖化して権威づけするより他なくなっているみたいですね。
小樽問答の時、創価学会身延山の語る「日蓮上人の魂魄が込められた山だ」というロジックを笑ったことがありましたが、今や創価学会がそのロジックそのものになってしまいましたね。それらはもはや失笑の的に過ぎないと思うんですが。