気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

自分の信仰の現在の基本姿勢。





私の現在の信仰の基本を以下になんとなく文章化してみました。もちろんまだ荒削りな部分も多く、細かくは確定していませんが、現在の私の思想の基本線はなんとなくおわかりになるかもしれません。





①本尊曼荼羅安置の場所は、戒定慧のうちの戒の場と考える。つまり戒法の修行の場であり、一念三千の観を究竟とする。その意味で止観の修行が理解できない末法衆生のために題目を唱えるという修行法を確立したのが蓮祖であるという立場。これらは『唱法華題目抄』の趣旨とも相違しない。また同抄を基本とすることで「道場を出ては行住坐臥をえらぶべからず」という修行の場の自由さ、汎用性も担保し得る。


②湛然における一念三千の教義としての固定化は比叡山の後の分派を生んだ根本原因である。筆者は一念三千を本来の智顗の意味として捉え、意味と価値世界との運動態として把握する。ソシュールの考えるパロール概念には世界の意味創出という視点でのパロール2が存在し、一つの意味という固定観念化は回避されなければならない。「事の一念三千」という概念は日蓮真蹟遺文中に見られないので採用しないが、一念三千を運動として考えることこそ『摩訶止観』正修止観章における智顗の本来の思想だとすることにこそ筆者の主眼がある。


③智顗の最大の誤りは法華最第一を定めた、五時八教の教判にあった。この批判は日蓮にも当てはまるものである。円仁と円珍による天台の密教化は五時八教の思想によって真言の自由さを奪われた格好になった。この五時八教は現代ではもはや有効性を持たない。法華最第一という日蓮の考え方を批判し、一切の諸経を曼荼羅に包摂しようとする日蓮の思想を再考すべきである。その時に初めて多宗門との対話の可能性が生まれ得ると考える。


④諸経の包摂性。ちなみに龍樹は『中論』において説一切有部の法の欺瞞性と権威性を徹底的に暴いたが、反面『十住毘婆沙論』において衆生のための易行道として阿弥陀仏を顕示して念仏の有効性を認めている。
蓮祖は曼荼羅中において諸経を包摂し、即身成仏概念を密教より摂取している。密教概念の影響がなければ法華経題目の呪術化もあり得ないし、日蓮思想の曼荼羅としての完成もあり得ない。
止観において釈迦の思想の本質を空とし、その上で本来の大乗仏教運動を模索していくというのが私の立場である。蓮祖が呪術化によって曼荼羅を完成させたことは疑い得ないが、呪術化は法華経陀羅尼品の解釈であり、呪術化こそが大乗仏教運動の堕落を生んだという中村元氏の指摘を考え合わせるべきである。


⑤自山にだけ独善的な相伝が伝わっていて他は誤りとする排他的な主張は採用しない。同時に教団そのものを仏に祭り上げ、会員を騙す行為はおよそ仏の教えの名に値しないと考える。一切の化儀はただ化儀に過ぎず、教義の解釈とは本来の釈迦の教えの再興ということにしか真実の意味はない。


⑥蓮祖は法華経においては上行菩薩の再誕として、法華経を釈迦の使いとして弘める立場を生涯堅持した。その宗教的使命感を蓮祖真蹟遺文中より認め、仏教徒として釈迦を本仏として、釈迦の教えの再興と再解釈を使命とすることこそが大乗仏教運動の徒としての本懐である。日蓮自身を本仏とし、釈迦よりも偉大な存在とする主張は上古天台恵心流の口伝法門を換骨奪胎した日寛による盗用教義に過ぎない。


⑦一念三千を本来の運動態として考える傍証として『総勘文抄』の新しい読みの可能性を模索する。ただし『総勘文抄』は真蹟不存のため、あくまで傍証とする。日蓮の限界は湛然解釈による一念三千の教義化、固定化にあり、それをもう一度記号と概念の運動として智顗の本来の思想から捉え直す時に新しい日蓮思想の可能性があると考える。つまり本体として教義の核を唱えながら、その内実が"空"であると措定できるとすれば、それはナーガールジュナ思想の再解釈として日蓮思想を捉えることができる。


日蓮書写『五輪九字妙秘密義釈』の思想は覚鑁の"地水火風空"の「五大」を「五体」と配する考えであり、この思想は『阿仏房御書』や『生死一大事血脈抄』に見られる。真蹟不存の両抄をそこから日蓮真作と判断するのはやや早計だが、少なくとも日蓮の即身成仏概念が密教由来のものであり、その思想の根に覚鑁の五輪思想、密教の影響を看取することができる。また日蓮自身によるとされる両親の供養塔は五輪塔であり、即身成仏概念に覚鑁思想の影響があることは否定できないと考える。ここから『守護国家論』の時期における法華真言未分の考え方、また『不動愛染感見記』の思想等を総合しつつ、日蓮思想の再考が可能であると考えている。





追記:
申し訳ないのですが、今回の投稿はあんまりわかりやすく書いていません。
たぶん創価学会員の方にも日蓮正宗の信徒の方にもわからないでしょうから。
別にわかってもらう必要も感じていませんで、自分の信仰のスタイルの確認をここで私はしているだけなんですね。
正直に言うと日蓮の思想には限界があると思いますし、批判されるべき部分も多いと思います。その具体的な問題点こそ天台智顗の五時八教による他宗批判と法華絶対主義、そして智顗の一念三千概念の摂取を湛然由来で行なっていることによる概念の固定化です。
そのことにより日蓮そのものを批判する人がいてもそれはもっともなことだと思います。
ただ現在の私はそこを乗り越え、本来の一念三千の運動に日蓮の思想を返すことで、初めて日蓮曼荼羅による諸教の包摂性と最澄の後継者としての有効性の射程を見出せると考えています。
一念三千の中に十界互具を見て、そこに衆生に内在する仏性を考えたという浅薄な日蓮像は否定されるべきでしょうからね。
そうではなく、法華経の底に一念三千の認識論が存在し、その内実は実は空仮中の三諦・一心三観であり、それが実在ではなく空であるとする時に初めて本来の大乗仏教運動の契機を日蓮思想に見いだすことが可能になるはずです。
まあ、それができなきゃその時は日蓮から離れればいいんだと思いますね。とりあえずやってみてどこまでいけるのかと。
ただ創価学会とか日蓮正宗みたいに特別な教えが日蓮にあって、どんな願いも叶うみたいなおまじない信仰なんて私にはどうでもいいことです。まして自山に特別な相伝があるだとか、教団そのものが仏であるとかわけのわからないカルト教義を持ち出して省みることがない宗教者には正直関わりたいと思えません。
なんか最近、たくさんの方にこのブログを見て頂いているようです。本当にありがとうございます。わかりにくいバカみたいな記事も多くて申し訳ありません。基本、自分勝手に書いているだけなので、わけがわからないと思ったら早く批判して離れることを推奨します(笑)。