気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

唯一絶対の法は存在しない。





唯一絶対の法は存在しないというのは、私個人の考え方ではなく、ナーガールジュナ(龍樹菩薩)の『中論』における思想の焦点です。

すですから日蓮正宗の方や創価学会の方が唯一絶対の法や血脈、教えが存在するというのなら、それは龍樹菩薩を否定し、説一切有部の教えと同じ考えに戻るということです。
もっとわかりやすくいうと小乗仏教の教えに戻るということを意味します。
ですから日蓮正宗の教義って私には意味不明なのですよ(笑)。
「唯一の絶対の法が存在する」とか「絶対の偉大な真理がある」とするなら、それらを否定した八宗の祖であるナーガールジュナの『中論』を読んでいただき、まずそれを破折するところから始めないといけないと思いますよ。



そもそもそんな教えなどないのです。
真言密教もそうですけど、法界曼荼羅において大日の世界を説きながら、その内実は実は「空」なんですね。
法華経化城喩品にあるように、真理は蜃気楼のように現れていますが、永遠のものではありません。
釈迦が説いたのは絶対の法などではありません。一切のものは流転するからこそ、怠ることなく修行を完成させよというのが釈迦の教えだったはずです。



自らの体験を通じて法の絶対性を信じるとするならば、その思想は文献を引用する必要はありません。禅の教えと何の変わりもありません。まあそれならそれでもいいですけどね。
ただ『唱法華題目抄』の「利根と通力によるべからず」という御文と矛盾相違してしまう気がしますけどね。



大事なことなので繰り返しますが、大乗仏教の祖とも言うべき龍樹菩薩は「唯一絶対の法は存在しない」という考え方を説きました。これは私の説ではなく龍樹の説であり、大乗仏教の出発点です。
それらを否定されるなら龍樹の『中論』を否定し、中観を否定し、空観を否定し、空仮中の三諦を否定し、一念三千を否定し、さらには空仮中の三諦が色濃く説かれている『御義口伝』を否定しなければなりません。
なぜなら日蓮正宗の絶対の法といえば、それはまさに楠木の丸太に彫られた板曼荼羅という現実に存在する"実体"なのですから。
あるいは法主から法主へと確かに相伝されて伝わっているはずの"内証"なのですから。
「唯一絶対の法が存在する」と主張するということはそういうことです。もちろんそれは思想的に自由ですが、基本的には説一切有部の思想に戻ることを意味していると思います。