気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

無謬性への過信。

 

 
 
 
どうして創価学会とか日蓮正宗とかの方って、自分たちの教団の無謬性を安易に信じるのでしょうか。
「組織に矛盾があっても、この法は絶対だ」とか「何があっても信心で受け止める」とか「御法主上人様は絶対です」とか。
 
 
 
でも、それって本当の検証された信仰とは呼べないでしょ。
つまり自分たちの教団の誤謬とか限界とか、そういうものに常に目を向ける、客観的な視点がないといけないと思うんですよ。
 
 
 
思うに、創価学会の中の池田名誉会長というものは、大いなる「虚像」です。
彼は教団指導者としての力があったのだと思いますが、そのため「広宣流布」という大義名分のために、創価学会総体が「池田神話」なる虚像を作ってしまいました。
平和思想家、名誉学位記取得、トインビー対談、師弟不二、エレベーター内での相承、入信時の即興詩という作り話、人間革命での大いなるフィクション。
これらの虚像を池田氏創価学会本部の共謀で作り上げてしまいました。もはや引き返すことさえできないくらいの大きな虚像です。
 
 
 
その思想的な背景には、創価学会の中に内在する、自分たちの信仰の絶対無謬性への過信がある気がします。
 
 
 
 
「我々は正しい。法華経の通りに難を受けている」と言う時、法華経のことも自分たちのことも全く疑ってみない。その確信が信仰の本質であると創価学会員さんはみんな勘違いしているのです。
それは信仰ではないのです。ただの盲信です。
 
 
 
 
「世界的指導者・池田先生」とか「唯授一人の相伝、御法主上人猊下」とかそんなことを言う時、いったいその人たちは何を信じているのでしょうね。
人を信じるのですか? それとも組織の言うことを信じるのですか? 不二の尊体を信じるのですか? 法を信じるのですか? 
では法とは何ですか? 尊体とは何ですか? それは自分の言葉で説明できるのですか? 
 
 
要するに思想の内実がないのです。
例えば池田思想というものがあるとして、「では池田思想とは何ですか?」と聞くと誰も何も答えられない。いわく「実践してみないと素晴らしさはわかりません」とか返ってきますけど、それじゃどこかのネットワークビジネスと変わらないじゃありませんか(笑)。
 
 
 
真実とは多面的なものです(なんだかスターウォーズのオビワンみたいな物言いですが・笑)。だから私たちが見る真理は別の解も存在するはずなんです。だから教理にも自ずと限界が存在します。
その限界を自覚することもなしに「自分たちは正しい」という確信だけを肥大化させていったのが、現在の創価学会の"池田先生"神話だと思います。
あまりに肥大化し過ぎてしまったので、もう名誉会長も公式の場に姿を見せられなくなってしまいました。教団として会員の目には「お元気な池田先生」という神話像を常に提示する必要があり、そのためには名誉会長は幹部会にも出席しない方がよいと信濃町は判断しているのでしょう。
 
 
 
創価学会にも日蓮正宗にも、自分たちの教団とか指導者に対する無謬性への過信があります。
その過信の結果が、今の名誉会長の人前に出てこれないという姿なのではありませんか。
浅薄な思想によって作られた虚像が、やがて実像をごまかせなくなっていく事態を、私はあえて「現証」と呼びたいと思います。
 
 
 
 
 
 
追記:
特に日蓮正宗の方に顕著なのですが、彼らは自分たちに都合の悪いことに耳を塞ぐんです。
例えばこのブログで、日蓮正宗三宝の問題、教義の一貫性のなさについて取り上げても彼らはそれに反論することができません(笑)。自分たちに都合の良い記事だけ取り上げてお茶を濁すんですよ〜。
残念ながら法華講さんの中で真正面から日蓮正宗三宝観の一貫性の無さに向き合い、答えようとした方は私の知る中で誰もいません。
御本尊の表記と『御本尊七箇相承』との記述が矛盾している事実にも彼らはきちんと向かいあうことをしません。要するに都合の悪いことに耳を塞ぐのが「日蓮正宗」なのです。
そのことを日蓮正宗は認めなければいけません。それができないなら、自分たちのカルト性を根本では否定できないでしょう。いつまでもカルトの教えとして「折伏育成の年」の勧誘活動に頑張ってみることでしょうね。