気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

止観を固定化させない試み。




つまり一念三千を「一念には三千諸法が具足する」とか「一念は三千から説明できる」とかしてしまうと、それは言語名称目録観になってしまって、一念と三千との相関関係、また本来の空性というものを見落としてしまうことになるんです。




『開目抄』における「一念三千が法華経の文の底に沈められている」という表現はややもすると、「一念三千」をあたかも実体概念のように捉えてしまう恐れがあります。
ましてや法華経における即身成仏の根拠が一念三千における十界互具で、凡夫の身にも仏が備わっているからなんていう根拠だけのことなのなら、あまりに智顗の思想を矮小化した議論になるということです。



一念三千の論理は概念と表現との運動として捉えられなければ、智顗の思想性そのものが矮小化されてしまいます。そして都合よく一念三千を自宗の教理の根拠づけに使っているだけと言われても仕方がないでしょう。



天台宗の教理は一心三観、空仮中の三諦円融を核として、十乗観法を説くものです。十乗における最初の観法は「不可思議境の観察」であり、最後の10番目は「法に対する愛着を滅すること」です。ですから一念三千を説くものは最終的に常住の法に対する自身の執着を滅しなければなりません。
智顗の一念三千論はもともとはナーガールジュナの『中論』における空性を、法華経の十如是をヒントにして語り直したものです。
これは言葉では語れない不可思議な世界をあえて限られた数で説明しようとする試みであり、智顗の『摩訶止観』での説明にあるように、一念も三千もどちらが主であるとはいえない関係性、コインの裏表のような関係性にあり、その本来の趣旨はナーガールジュナにある空の説明にあります。ですから一念三千を実体概念として考えてしまうのは、智顗の本来の意図にも反するし、ナーガールジュナの思想とも異なってしまいます。


したがって『諸法実相抄』を拡大解釈して「諸法の実相」をあたかも実体として何か特別な法が宇宙に存在しているとする考え方は、大乗仏教運動における空観とは異なり、これらは否定されなければなりません。それにそもそも『諸法実相抄』は真蹟が存在しません。



ですから私の本意は「日蓮が一念三千を固定された法概念として考えた」のではなく「日蓮は即身成仏の根拠として一念三千という思想的空の概念を衆生に理解させるためにあえて題目・曼荼羅を用いた」という風に理解しているのです。
日蓮が一念三千を用いたのは湛然の思想に近いのですが、私はもう一度智顗に帰るべきだと考えます。



ニーチェプラトンからカントに至る形而上学を徹底的に批判した理由は、プラトンが自然界を越えたところにイデアという形而上学的な原理を仮設したことなのであって、そこにこそニヒリズムの根元があると考えました。そこではイデアにフォルマを与える前提となるものはマテリア、ヒュレーとしての自然になってしまいます。これらの原理から言語において説明が可能であるとした西洋形而上学の根本的元凶をニーチェは神であると考え、神そのものを殺害しました。ニーチェにあっては神概念は近代科学や西洋形而上学の考え方のドグマだったのでしょう。



ジル・ドゥルーズによれば「ニーチェは、諸価値の転倒=転換を実行するためには、神を殺すだけでは十分でないということを、我々に教えてくれた最初の人である」とします。つまり神が否定されたあともドゥルーズによれば、神の座に代わって「真なるもの、善、神聖さの代わりに、進歩、幸福、有用性などがその場を占めた」わけです。
形而上学におけるイデアが否定されれば、それが今度はマテリアにとって代わられる。それは結局一神教が宗派替えをしたようなものであって、概念が固定化される事態を回避できていないのだということです。



ナーガールジュナの『中論』で徹底して批判されたのは上座部における説一切有部の常住という考え方です。
確かに釈迦の滅後にその説いた教えが常住すると説くことで教えを固定化できる。けれどそれは釈迦の教えではないと。
そのような概念を否定したところに釈迦の本質がある。その空性を智顗なりに説明したものこそが一念三千ということなのです。



ですから一念三千を凝り固まった教義として考えてしまえば、それは説一切有部の過ちと同じになってしまいます。
確かに私たちは何かを語る時に概念化を果たし、概念によって説明しなければ伝わらないことは事実です。
しかしその概念は言語と切り離せない関係にあり、私たちの思考はそのような記号と不分離にあります。つまり記号を越えて思考するためには記号を越えなければいけない。それは言語的な思考にならないわけです。



一念三千を究極の極説としたのは湛然ですが、それが果たして智顗の本来の意図であったのかはわかりません。しかし一念三千説を固定化する事態は回避されなければなりません。
私の考える日蓮の本意は「言語によって伝わらない止観を題目に換言することによって、止観を万人に実践可能なものとして再構成しようと試みた」ということです。
唱題によって反復される記号は意味性を持たない記号に還元されます。しかし根本は法華経の題名であり、言葉であるということです。
ただ日蓮門流の思想の陥穽は、題目を完成された概念として固定化してしまうところにあり、本来の止観とはそれを越えて思考することに本質があると考えます。常にドグマになろうとする思想を常に運動態として捉える視点こそ私たち信仰者が持つべき態度であり、その止観の実践の場として禅定となるべき本尊が存在するのです。