読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

「しうし」か「したし」か。




よく日蓮正宗創価学会は、その日蓮本仏論について批判されます。
今の私は日蓮本仏論なんて全然信じていません。日蓮法華経の行者として、また釈迦の使いとして生涯を戦い抜いたと考えています。


ところで、その批判の際に挙げられるのは『開目抄』の解釈です。「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」を「しうし」と読み、これを「主師親の三徳」と考えます。
日蓮宗身延山系はこれを「したし父母」と読みます。ただ『開目抄』の真蹟は身延曾存ですから(明治8年の火災で焼失)、真蹟をもとに確認する術がありません。



私見ですが、これは「しうし父母」でよいと考えています。つまりここで日蓮は『開目抄』冒頭の三徳と対応した表現を使ったわけであり、日蓮自身は法華経の行者として、また如来の使いとして三徳の一分が自身に具わると考えていたと思います。
遺文から判断するに、如来の使いとして、また上行菩薩としての自覚に立ちながら、日蓮は三徳の一部が身に具わるとしていた。そう私は考えています。



なぜか。
まず文法的に「したし」と考えると不自然なのです。「したし」は古語の形容詞で終止形です。つまり遺文を読むと「日蓮は日本国の諸人に親しい。父母である。」と二つの文に分かれてしまいます。この感じは日本語としてやや不自然です。
では「したし」が「父母」を修飾する連体形なのではないかとも考えられるでしょう。その場合は「したし」でははく「したしき」にならなければいけないはずです。
「しうし」か「したし」かが論争の焦点ですが、真蹟が曾存なので確認する術がありません。ただこの部分が「ひらがな3文字」であることは疑い得ない。そしてここには「したし」の連体形「したしき」の「き」が入っていないことから、私はこの文を「しうし」と読む方が自然だと考えるのです。



では日蓮遺文中で「主」を「しう」と表記する用例は存在するのか。
実はあります。文永12年1月の『四条金吾殿女房御返事』(夫婦同心御書)です。


「されば此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ」
創価学会版御書全集、1134ページ)



法華経を持つ人は一切衆生の「しう」であるとしています。ちなみにこの御書は丹後妙圓寺、京都恵光寺に真蹟が現存します。
ここから考えるに、法華経を持つ人が三徳の一分を持つことができると日蓮は考えており、釈迦を本仏としつつも、その本仏の徳の一分が法華経の行者にも顕現されるとしていたのです。
もちろん以前ブログで紹介したように「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる」(同1494ページ)と日蓮は述べていますから、日蓮が釈迦を根本の本仏としていたことは明らかです。佐渡以降もちゃんと文永9年の『祈祷抄』で「釈迦仏独(ひとり)・主師親の三義をかね給へり」(同1350ページ)としています。


日蓮『撰時抄』で、次のように書いています。

「此の事一定ならば闘諍堅固の時・日本国の王臣と並びに万民等が仏の御使として南無妙法蓮華経を流布せんとするを或は罵詈し或は悪口し或は流罪し或は打擲し弟子眷属等を種種の難にあわする人人いかでか安穏にては候べき(中略)されば日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」
(同265ページ)


文章の前半で自身を「仏の御使い」としていますが、後半では自身を「当帝の父母・師範・主君なり」と三徳の存在としています。
つまりここから考えるに、日蓮は自身を釈迦の使いとして考えていましたが、釈迦の使いとして法華経の行者として生きる時、三徳の一分もまた自分の身に具わると考えていたのです。
ですから、『開目抄』の「日本国の諸人にしうし父母なり」は正しく「主師親」と読むのが正しいと考えますが、それがあるからと言って直ちに日蓮が釈迦を越えた末法の本仏であるとする日蓮正宗創価学会の解釈はこの『撰時抄』の文から考えても論理の飛躍であり、曲解であると思います。



話の最初に戻りますが、『開目抄』の件の文について「しうし」なのか「したし」なのかは真蹟が曾存なので確認する方法がありません。
上に論述したように、私はここで「しうし」を支持していますが、そこに別に固執しているわけでもありません。考えてみれば「日蓮は日本国の諸人に親しい。父母である。」という二文による文章の方が自然だと考えられ、整合性があると判断できれば「したし」説を採用してもよいでしょうね。
けれど身延山系の「したし」の議論については、やや創価学会日蓮正宗批判のための論理という感じがします。またここは連体形で「したしき父母」としなければ日本語として不自然な印象を私自身は受けてしまうんですね。



私自身は日蓮宗身延山にもなんら共感はしていません。私は創価学会にも日蓮正宗にも日蓮宗にも別に依拠しようとは思っていません。私はあらゆる組織から離れて、個人で信仰を深めていきたいと思っています。創価学会版の御書をいつも引用しているのは、自分が長年使ってきて使いやすいというだけの話です(笑)。
私にとって大切なことは、真実は何であるのか、日蓮の思想とは何であるのか、それは現代において有効性があるのか、信じるに足るのか、ということなのであり、本当の釈迦の教えとして現代における真実を求める姿勢こそ、私が日蓮から学んだことです。