気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

十界論はもう要らない。





創価学会員さんはよく「十界論」を語ります。
それくらいしか教学的な知識がないみたいなんですけど(笑)、別に「十界論」って日蓮独自のオリジナルの説ではありません。
創価学会員さんが十界論をさも日蓮の説のように語ると、仏教に関する無知がバレてしまいますので、あまり語らない方がいいです(笑)。
「誰が十界を説いたんですか?」って聞くと、学会員の方は誰も答えられない(笑)。下手すると「日蓮大聖人さまでしょ」とか言い出しかねません。



十界論という概念はいわゆる漢訳の大乗経典には出てきません。
これは1269年、天台宗南宋の志磐が著した『仏祖統記』の巻50にあるものです。



加えて言うと「十如是」というものは、法華経の方便品に出てきますが、これは鳩摩羅什による意訳です。というか意訳というより拡大解釈に近いです。
サンスクリット原本の法華経では十如是は5種類しかありません。例えば岩波文庫版の岩本裕氏の訳を見ると、次のようになっています。



如来こそ、あらゆる現象をまさに知っているのだ。すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を持つか、ということである。」



「何であるか」「どのようなものであるか」「いかなるものであるか」「いかなる特徴を持つか」「いかなる本質を持つか」という5つしか法華経サンスクリット原典には記されていません。これを10種類に訳したのは鳩摩羅什の拡大解釈です。



ですから正直に言ってしまうと、一念三千の3000という数字にはあまり意味はないんですよ。
一念三千を日蓮法華経における即身成仏の根拠としましたが、本来即身成仏の義は真言で語られる概念です。


私は一念三千を固定された永遠の法とは考えていません。むしろ一念三千よりも、より天台智顗に即した表現にすべきであり、「一心三観」とか別の表現を私はここで用いるべきなのかもしれませんね。
十界論を説いた志磐にせよ『仏祖統記』も天台宗の正当性を主張するために説かれたものに過ぎません。
一念三千を実在論として考えてしまえば、説一切有部の説いた常住論と同じ轍を踏むことになってしまいます。



創価学会員さんはそろそろ十界論で何かを語るのはやめた方がよいと私は思います。
仏教の知識が浅薄であることがバレバレですし、そもそも法華経に十界が説かれているわけでもありません。
一念三千を神聖視して絶対化したのは天台智顗ではなく妙楽湛然です。確かに日蓮は湛然から一念三千を摂取しているのですが、それを曼荼羅に換言したという事態についてよく考えてみることが大切ですよね。



心の本質を空性と捉えるのは、大乗仏教中観派唯識派の思想ですけど、一念三千を数で固定化して説明する事態は中観派の考え方とも抵触すると思います。
人間の生命がたかだか10種類に区別されるはずもないし、たかだか3000種類で網羅されるとも思えません。普通に考えてもあり得ないですよね。





追記:
本来、一念三千とは天台宗で語られてきた概念であり、一心に十法界を観じる修行をする際の考え方ですが、これを実在するものとして考えることは智顗の思想に反するものだと思います。
創価学会であまりに一念三千が実体を持った法のように語られていることは、思索が浅いと思いますし、天台宗に対しても失礼なことにあたるでしょう。
確かに日蓮は『開目抄』で一念三千が法華経の文の底に沈んでいるとしましたが、これを実在する法概念として捉えられてしまうから、おかしなことになるんですね。