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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

屹立した信仰。




昨日のつづきなんですが、一人の自立した信仰者を育てることでしか、信仰って継承されないんだと思うんですよね。



単なる組織人、組織の運営管理をして従順な羊のような人を育てるだけなら、信仰の意義は次第に見失われていきます。


今の創価学会は、真の自立した信仰者を育てることをもはや放棄してしまっているんです。
教義らしい教義もない。考えることもない。あるのは昔の日蓮正宗の借り物に尾ひれをつけただけで、その知識を無反省に学ぶことが教学だと考えている。
そんな状態で屹立した人格を育てることが可能でしょうか。



日蓮の思想とは本来何だったのか。
なぜ創価学会から青年がいなくなったのか。
大切なのはそういったことを検証して再出発することなんです。けれど考えられないんです。
なぜかといえば組織に依存した信仰だからです。
組織といえど永遠ではありません。マックス・ヴェーバーが指摘したように社会集団は最初がどんなに有機的であろうと、形骸化して官僚化する事態は回避できないんです。



三代会長を永遠の存在にしてそこを原点にして、何が生まれるのでしょう。
創価学会は原点にするものをどこか間違っていませんかね。




日蓮を根本にするなら、日蓮の思想を真摯に学ぶべきなんです。
牧口常三郎を根本にするなら、牧口常三郎を真摯に学ぶべきでしょう。
そして日蓮思想の限界、牧口の限界、池田名誉会長の限界について理解すべきです。




絶対の法とか永遠の法とか、そんなものは存在しません。
絶対の法とか永遠の法とか、そういうものを否定したのが釈迦だったのではありませんか。



日蓮遺文を真摯に読んで私が感じるのは、釈迦の使いとして法華経を根本に一切経を判釈する強い意志です。
釈迦の本来の教えとは何だったのか、そして末法の時代にあって何が正しいのかを常に問い直し、思索し、求め続ける法華経の行者の姿がそこにあります。
今の創価学会の会員の中にそのような姿を見ることができるでしょうか。
そんな人は創価学会にはいません。



戸田会長は「広宣流布の暁には創価学会は解散する」と述べていました。
戸田会長の発言から考えるに、彼は創価学会組織を日蓮正宗の布教を計る信徒団体と考えています。
役割が終わったらその存在意義は特にないと。



昭和47年に正本堂も建立しましたし、創価学会の公称世帯数も800万世帯を越えました。公称というか自称かもしれませんが(笑)。
それならもう充分ですよ。今の形骸化した創価学会なんて解散すべきです。
組織が解散したくらいで、まさか信仰が揺らいでしまうんですかね。
たかだか一つの宗教団体が潰れたくらいで、揺れるような信仰なんて信仰とは言えません。



是聖房蓮長は、比叡山で嫌というほど宗教の形骸化という事態を見てきたのではないでしょうか。
高度な学問を欲した蓮長は清澄寺から比叡山への遊学を希望しました。
比叡山は当時の学問の中心であり、多くの経典、判釈、論釈書が蔵されていました。そこで一切経を読み、十宗の宗奥を極めるという強い使命感と向学心に燃えていたと思います。
けれども比叡山も山門派と寺門派とに分かれ、蓮長が学んだ山門派内も恵心流と檀那流とに分裂していました。



若き日の是聖房蓮長が追求したのは、法華経真言密教でした。蓮長の本意とは台密の現代的解釈と理解だったんですね。
円仁、円珍が天台宗真言をもたらしたのは最澄の意志に反するような理解をする創価学会員さんもいるようですが、そうではありません。天台宗密教化は正しく最澄の意志でもあったのです。
最澄本人は自身の真言の理解に不足を感じ、弟子を空海のところへ送っています。法華経の大乗戒壇と教理の完成には自身の教学体系の中に真言をきちんと位置付けなければならないという最澄自身の強い意志がありました。



そのような最澄の意志を受け継ぎ、法華経根本戒としてあらゆる宗要を自身の教学体系の中に位置付けようとしたのが是聖房蓮長の試みです。



翻って今の創価学会の中にそのような過去の総括を計り、教理をもう一度整理しようとする方がいるのでしょうか。
小林正博さんでしょうか。宮田幸一さんでしょうか。はたまた中野毅さんでしょうか。
小林氏も宮田氏も中野氏も、過去の創価学会教学を振り返る意志を持っているのかもしれません。でも現在の創価学会は彼らの検証をどう活かし、どう組織を変えていくのでしょう。
結局やったことは、わけのわからない「創価学会仏」の規約化と「池田先生」の呼称の固定、弘安2年本尊を受持しないという宣言、そんなものくらいですよね。
しかも今の創価学会員さんは、そんな会則の改正などほとんど考えることもしていない。それについての見解など、地域の幹部から聞くことなんてできません。検証も理解もせずにただ鵜呑みにしているだけです。なぜなら「創価学会は正しい。なぜなら池田先生は正しく、創価学会だけが唯一の広宣流布の団体だからだ」というわけのわからない(笑)トートロジーの論理で創価学会組織の言うこと全てを受け入れてしまっているからです。



自らの意志で選び取り、判断し、行動できる、屹立した人格者を育てて初めて信仰は継承され得ると考えます。
比叡山はかつて教学的に分派し、論争が繰り広げられました。けれど今の創価学会の会員さんはそんな論争すらできない。
みんな御本尊様にお願いをするだけの、ただのおすがり信心ではありませんか。ほとんど迷信に近いものです。教学的な裏付けを聞いても何も答えられず、せいぜいわけのわからない十界論と生命の永遠の法と池田先生とか、それくらいしか言えません(笑)。それって日蓮の教えなんでしょうか。



「我が己心を観じて十法界を観る」ことが曼荼羅本尊への信仰の原点なのであれば、御本尊の前に端座し、今の創価学会の現実と自身の教学の浅薄さを観じ、見つめなければならないはずです。
本来、御本尊とは観心の修行の場であり、それを見失い、おすがり信心に堕する時、開祖の心も失われます。





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