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創価学会の非活メンバーによる語り

日蓮の出自は「旃陀羅」か。







若い頃から不思議に思っていたことが「どうして一介の僧に過ぎない日蓮が時の執権・最明寺時頼に『立正安国論』を提出できたのか」という謎です。



日蓮は自身を

「旃陀羅が家より出たり」
(『佐渡御書』、創価学会版御書全集、958ページ)

日蓮は日本国・東夷・東城・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり」
(『佐渡御勘気抄』、同891ページ)

と述べています。創価学会の方ならご存知でしょうけど、日蓮は漁師の出身であり、そしてこの「旃陀羅」という言葉は最下層の賎民に対して使われたと言われています。



最下層の貧民の出身ならなおのこと、鎌倉幕府の執権に諫暁の書とも言うべき『立正安国論』を提出するのは難しいでしょう。
この語は元はインドの最下層の身分で屠殺を職業とするチャンダラの音訳とされていまして、密教が日本に伝えられると同時に、これらヒンドゥー教の身分差別的的な表現も平安時代に伝わったと言われているようです。



日蓮は漁師の出身であるということから「
旃陀羅」という語を使われたと推察できますが、また同時に貴族や武家の出身ではなく、身分は関係ないという宗教観を持って「旃陀羅」を自称したとも考えられるでしょう。



しかしよく辿ってみると、日蓮はただの漁師の子ではなく、武家の出身であることがわかってきます。



蓮祖の父は貫名(ぬきな)次郎重忠、母は梅菊という名で知られます。



貫名氏は、保元の乱(1156年)の頃、井伊氏より分かれた三家(井伊・赤佐・貫名)の一つとされています。ちなみにこの系図は静岡県の貫名山妙日寺に残っています。
妙日寺の系図によれば、重忠には五人の男児がいたとされ、四男の「薬王丸」が日蓮の幼名だと言われています。
日蓮の父、貫名重忠は権守の漁民で、元は遠州貫名郡(現在の静岡県袋井市)の領主であったとのこと。ただ保元の乱平氏方についたために幕府より安房小湊への流罪とされ、正嘉2年(1258年)に生涯を閉じています。
貫名重忠の「貫名に埋葬してほしい」という遺言により、遺骨は貫名の地にて埋葬されました。
現在、袋井市にある妙日寺には、蓮祖の両親を供養する為の「妙日尊儀、妙蓮尊儀供養塔」の五輪塔が存在します。



この妙日寺の系図や伝承の信憑性の検証はさておき、日蓮の出自が武家にあるとする仮説は興味深いですね。つまり武家出身であるならば、なんらかの人脈で『立正安国論』の提出も可能になるはずですから。
とすると立正安国論提出の仲介役となった「宿屋入道」なる人物は、貫名氏となんらかの関係があり、幕府の人物とも繋がりがあったのだろうと推測できます。
また日蓮自身が長男でないことも、出家する条件と考えても説明がつきます。


 


追記:1
やや脱線しますが、妙日寺に両親を弔う五輪塔が存在することも興味深いですね。
五輪塔」というのは遺骨を入れる塔のことですが、地水火風空の五文字に配されていて、この五輪塔の発祥はインド、とりわけ密教の影響と言われています。
そして五輪塔が日本に広まる一因となったのは覚鑁(かくばん)の著作『五輪九字明秘密義釈』であり、五大を五輪と拝し、さらに五体と配するのはこの覚鑁の思想ですが、この思想は日蓮の『阿仏房御書』や『生死一大事血脈抄』(真蹟不存)に散見されます。
若き日の日蓮『五輪九字明秘密義釈』書写を残していて、写本は中山法華経寺に現存しています。
貫名重忠氏が亡くなったのが正嘉2年(1258年)とされていまして、少なくとも五輪塔を建立供養したのは立教開宗の後のことになります。
覚鑁の『五輪九字明秘密義釈』の主張は、阿弥陀の極楽浄土への往生と即身成仏が本質的には同じものであるということです。つまり覚鑁のこの著作により「即身成仏」という概念が真言という一つの宗派を越えたことを意味しています。
 ということは、日蓮が「即身成仏」概念を自身の思想に盛り込む時、覚鑁のこの思想の影響下に日蓮があることは容易に想像できることですね。


追記:2
なお『佐渡御書』『佐渡御勘気抄』ともに真蹟不存ですが、ここでは両抄ともに蓮祖の作と仮定して書いていることをご承知くださいませ。