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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

一念三千の成仏。





結論から述べてしまうと、『開目抄』において、日蓮は「即身成仏」概念を真言から摂取しつつも、華厳真言にそれらの実義はないと考えています。そしてその「即身成仏」の本義が「一念三千の成仏」であると言い換えるんですね。
つまり即身成仏の概念は真言からなのだけど、それらの本義は法華経の中の種であり、「一念三千の成仏」こそが本当の成仏であると。



『開目抄』から引用しましょう。


真言華厳等の経経には種熟脱の三義・名字すら猶なし何に況や其の義をや、華厳・真言経等の一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去を隠せり、種を知らざる脱なれば超高が位にのぼり道鏡が王位に居せんとせしがごとし。」
創価学会版御書全集、215ページ)


「法華已前の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成仏・往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり」
(同223ページ)


華厳真言等に説かれる一生初地の即身成仏等は本来の種を知らないものだと。法華経以前の小乗大乗の経における成仏は成仏を許しているようだけども、それらは結局「改転の成仏」に過ぎず、真の即身成仏は「一念三千の成仏」でなければならないとしています。


ただ日蓮は「一念三千の観を先とせず」(『唱法華題目抄』同12ページ)と述べているように、止観を末法の行法とはしませんでした。
日蓮にあっては止観に替わる修行は題目であり、唱題行です。
唱題することにより、一念三千の観をそのまま体現する修行になり得ると確かに思います。唱題により言葉の有意味性はゼロになるわけで、浮遊された状態にありながら、しかし題目という言葉を根本にしているというのは理想的な修行法と考えられます。


ただこれらをおまじないのような宗教としてしまうと、創価学会とか日蓮正宗になっちゃうんです(笑)。


題目をあげても別に何か不思議な現象が起こるわけではありません。呪文じゃないんですから。
即身成仏の種として日蓮が考えたものこそ「一念三千」だったと。ただ日蓮の「一念三千」理解は智顗というより湛然からの解釈でしょう。



真蹟遺文における「無作三身」という用例の無さから、日蓮に本覚思想が存在しなかったと言うことも可能です。

しかしながら日蓮の思想中に「即身成仏」思想が存在することは疑い得ません。『開目抄』においては「改転の成仏」ではない「即身成仏」を「一念三千の成仏」としています。
つまり日蓮の本覚思想は天台法門というより、台密密教からの摂取であり、それを一念三千と読み替えるところから全てが始まっていると考えられます。





追記:
ですから創価学会の浅はかさというのは、この「一念三千の成仏」をただの完成された教義としてしまったことです。一念三千の種が法華経にあって題目を唱えるとその種子をそのまま得ることができると。で、それ以上思考しないんです(笑)。祈祷師のように題目を唱えて願いを叶えるただの「おまじない」信仰になっていますから。
それって「一念三千の成仏」という概念を本当に理解しているとは言えないんじゃないんですかね。



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