まあとは言っても、私はもともと創価学会の活動家だったわけです。バリバリに(笑)。
創価学会に入っていて、確かにそこで自身の居場所を見つけて「戦って」きたわけです。
今は完全に活動から遠ざかり、個人で日蓮遺文を読み、唱題行をしつつ、仲間たちと高めあいながら信仰を深めています。
思想を持つということは、思考の型を持つということです。
頑張るものだなぁと思いつつも、彼らは折伏をしていて相手から非難されると、それにより自身の罪障が消滅し、功徳があると教えられています。
だから勇んで頑張るわけですね。
創価学会もそうでしたよね。
今もそういうところあるかもしれませんが、だいたい聞法下種と発心下種は同じ功徳があると教えられていましたから。
だから相手が信仰をするかどうかは関係ないというわけです。こちらが語りかけた分だけ功徳は現れるんだと、こう教えるわけです。
いずれにせよ、そのような思考の型が存在するからこそ思想と言われるわけです。
問題は一つの思考の型を持ってしまうと、他を受け入れられなくなってしまうということです。
自身の意味世界の中に無いことは、受け入れることができないし、肯定することさえできないんです。
全面否定しかないんですね。
純粋といえば純粋なんですが。
純粋な方だからこそ、そう言ったカルト宗教の陥穽にハマってしまうものです。
マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で、人間は歴史を作るけれど、与えられた生産諸関係の中で歴史を作ると述べています。つまり思想という上部構造は、時代の制約や歴史的な諸条件に依拠せざるを得ないものです。
ですから、戸田会長時代の教えは現代では古めかしく感じられるのは当然のことです。当時はそれがよいと思っていたけど、歴史的な諸条件を超越して私たちは思考することができないから、客観的に見つめるためには歴史を越えないといけないということです。
で、私はすでに現在の創価学会の教えも今となっては過去の存在になってしまっていて、歴史的な諸条件に支えられていない遺物としての形式に過ぎないと考えています。
マルクスの主張は歴史的諸条件や生産諸関係が意識や思想などの上部構造を規定しているとします。だからこそ、その上部構造を変えるためには生産諸関係や外的諸条件を変革しなければいけないと考えました。
つまり『経済学批判』の序文にある唯物史観の公式の真意は、実は上部構造と下部構造との絶えざる変転と相克にあるのだと考えています。
もちろん人間の思想というのは全て多様な社会的諸関係に支えられていますから、どこかの宗教が特別ということではありません。
その思想体系で安心することも一つの幸せでしょう。けれど、客観的な真理を見るためにはいっぺん自身の思想の鋳型をかっこにくくって眺めてみなければいけない。
思想の鋳型を越えて思考しないことは楽です。安心ですし、決まった教義や思想体系の中で世界の全てを判断できると思ってしまうからです。
しかしそれらが抑圧の体系になり、本来の開祖の心をどこかに置き忘れ、信徒を煙に巻くだけの形式に成り下がるなら、その思想と対決し、体系を超克することは必要なことです。
無反省にできあいの教義で満足するなら、それはそれで楽ですし、一つの幸せです。
しかしそれらが人間を抑圧し、個々の主体的な解釈を縛りつけ、開祖の精神を蹂躙するだけなら、それらは悪であるということですし、そのことに声をあげないとするなら、悪への加担になり得ると考えます。
追記:
けれど、法華講の方々は私のような思考法は受け入れられないんですね。
早く目を覚まして、自分の頭で考えることを始めてほしいと切に願っています。