日蓮が出家した際の名前は「是生房」蓮長として知られています。
ところで『産湯相承事』は真蹟が存在せず、最古の写本として伝えられるのは『富士年表』によれば、京都要法寺日辰の写本であり、これは蓮祖滅後279年のものです。実際に現存する写本はこの日辰本をさらに書写した富士大石寺日精の写本で、蓮祖滅後347年のものになります。堀日亨氏の『富士宗学要集』では保田妙本寺の日山本を用いています。
ところが、日蓮が清澄寺で書写した智証著とされる『授決円多羅義集唐決』(金沢文庫蔵)を見ると、
「嘉禎四年大才戊戌十四
十一月十四日
阿房国東北御庄清澄山道善房
東面執筆是聖房生年十七歳
後見人々是無非謗」
ところで身延門流・京都妙伝寺日意の『五字口伝』によれば「仮名は是性房」とされていて、また左京日教の『百五十箇条』においても仮名は「是性」となっています。
ここからわかることは、日蓮自身の仮名は音写、口伝等で伝わっており、漢字による名前は伝わっていないということがわかります。
つまり口伝で「ぜしょうぼう」と伝わったわけで、それが門下それぞれの音写で「是生房」となったり「是性房」となったりしたのですが、正しくは日蓮17歳の時の写本で「是聖房」であったということです。
大石寺は『産湯相承事』という相伝書が存在すると言いながら、最古の写本は日蓮滅後200年以上経ってからのものしか存在せず、しかもその最古の写本が他山の要法寺でしかないと言うことからも、大石寺における相伝の主張も姑息な正当化でしかないということがよくわかると思います。
同時に未だにそんな『産湯相承事』が収録された御書全集を採用し続けている創価学会は、もはや遺文をまともに読むことさえできなくなっているのかもしれませんね。