気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

現象学的実践としての止観。





ある意味で、E・フッサール現象学的実践は智顗の「観心」であると言えるでしょう。



フッサールはカントと問題意識を共有していますが、基本的に「もの自体」に私たちの認識は届かないということです。
ただカントは「もの自体の世界」を私たちの認識の世界の外にあるとしたわけですが、フッサールはたとえ認識が対象への誤謬に過ぎないのだとしても、私たちが認識するという心の変容は追いかけられるはずだと考えました。
つまりそれは「一心の妙用」を観るというか、「観心」の修業であって、その考え方は智顗に近いんだと思うんですね。



ただその観心により、世界を構成している記号の解体に向かうには、西洋思想ではハイデガーソシュールの出現を待たないといけません。
フッサール門下(というより異端の弟子というべきか)のハイデガーは晩年の思想で、言語思想に至ります。
よく知られるようにハイデガーの主著とされる『存在と時間』は未完に終わりました(刊行された部分は上巻として出版されたものです)。ハイデガーの思索が言語思想に到達するのは、後期の一連の著作である『杣径』や『芸術作品の起源』、『ヒューマニズム書簡』などですね。



木田元氏が指摘していましたが、ハイデガーは存在の根拠を当初「時間制」(ツァイトリッヒカイト)に即して解明しようと試みたようです。しかしそれは挫折。のちに彼は言語や芸術作品、とりわけ詩人に着目し、言語から存在の明るみという問題を考えるようになります。


これらのフッサールから後期ハイデガーに至る過程は、まさに智顗の『摩訶止観』でしょう。ある意味ではナーガールジュナの思想にさえ近いように思えます。



「一念三千とは一念に三千諸法が具足している」と考えただけでは、決して一念三千の思想に届かない。そもそもその言い方をしてしまうと『摩訶止観』における智顗の説明とも矛盾してしまいます。



これら記号による世界の構成、世界内存在としての私たちの差異化された言語世界を一度解体する、その試みこそが「止観」です。このような修業を「観心」と呼び、一念三千の観を観ることで、世界の構成から一度離れようとしたわけです。



その意味で「迹門不変真如の理」とは、本来世界を構成している記号世界を解体して観ることであり、「本門随縁真如の智」とは解体された記号世界から新しく世界を構成する試みでしょう。ハイデガーはそのような世界創造の言語記号の特質を詩の中に見た。だからこそ彼はパウル・ツェラン等の詩人たちに接近していきます。
余談ですが、池田大作氏は『御義口伝講義』において「迹門不変真如の理」と「本門随縁真如の智」を説明するのに、懐中電灯の比喩を用いています。確かに理論と実践という意味ではわかりやすい例えですが、あまりに短絡的に過ぎ、返って日蓮の思想を矮小化していると考えます。まあとはいえ、実際はこの本を書いたのは池田氏本人ではなく、原島嵩氏なのでしょうけどね。



「迹門不変真如の理と本門随縁真如の智は、日蓮のオリジナルの思想なのか」という問いも当然理解できますが、私は日蓮の中にそのような過去の形骸化されたラングを解体する試みが存在すると考えています。なので、あえてこの用語をここでは用いています。
そもそも法華経思想の理想を日蓮最澄の中に見ていますが、最澄を乗り越え、また台密をも乗り越え、新たに法華経思想を彼なりの一念三千説から曼荼羅の中に位置付けようとする試みが日蓮には見られます。まさにそれこそ再解釈の思想であり、理と事の運動であると私は捉えています。


法華経の題目も、日蓮自身の曼荼羅も後世の私たちには残されています。ただそれらはすでに記号化され、既成の言語世界として私たちを束縛するラングとして存在しています。
トマス・クーンが指摘したように、私たちは歴史のパラダイムを越えて思考することが基本的にできません。日蓮もまたできなかったわけですし、現代に生きる我々もその歴史的パラダイムのために盲目になることを自覚すべきなのは当然のことです。
とするなら、日蓮が残した曼荼羅とはそもそも何か、新たに創出されるべき記号とは何か、それらを思索し、新たに法華経思想を構築することこそが、真の止観なのではないでしょうか。