気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

秘妙方便について。






方便には3種類あって、法用方便、能通方便、秘妙方便とあります。
方便とはサンスクリット upayakausalya の漢訳であり、悟りに近づけるという意味です。
ドイツ語の分離動詞で nahe /  bringen というものがありますが、「近くに持っていく」というのが本来の意味で、これが「理解させる、わからせる」という意味で使われるのを昔知った時、とても面白かったですね。



つまり方便とは仏の悟りに近づけていくための巧妙な手段ということになります。
岩本裕氏も法華経方便品を「巧妙な手段」と訳しています。



ところで、「秘妙方便」とは何か。
秘妙方便とは、「真実でありながら方便」というもの。
これがどの創価学会員さんに聞いても幹部に聞いても、どういうことなのか全く説明できないんです。
つまりそれこそが法華経の題目なのだということを彼らは言いたいんでしょうけど、それならなぜ真実と呼ばずにあえて「方便」と呼ぶのか、彼らは理解できないんです。
なぜ真実の法でありながら方便なのでしょう。



つまり真理とは名を与えなければ認識することができない。もちろんそれに名を与えてしまえば、それは真実とはズレてしまいます。
しかし名を与えなければ、人々が真実とは何かということを知らないままになる。
だからこそあえて名を作り、命名するわけです。『法華玄義』の「聖人理を観じて準即して名を作るが如し」という一文はそのような意味として理解しています。



M・ハイデガーの『ヒューマニズム書簡』に「言葉は存在の住所である」という言葉がありますが、言葉というのは本来存在するものに名を与えている(いわゆる言語名称目録観)のではなく、名を与えることによってその意味と存在を浮かび上がらせる、存在の根拠です。
F・ソシュールは「言語以前に名指される対象というものは存在しない」と述べましたが、まさにその通りで、言語は対象に名を与えているのではなく、言語は命名によって対象を創出しているのだと言えます。



つまり秘妙方便とは命名による、真理としての対象の創出なのですが、これはあくまで方便であるわけで、その名が常に権威化し、ラングとしての言語に堕する可能性を否定できません。
だからこそ、法華経の題目でさえも権威化され、意味が歴史的に制度化されて固定化される危険性をいつも孕んでいます。
だとすれば、私たちは今の時代において、常に法華経の題目とは何であったのかを考え、再解釈することを躊躇ってはならないと思うんですね。



ナーガールジュナに始まる大乗仏教運動の本質とは、そのような名の制度化に対する解釈の運動なのだと理解しています。
永遠の仏とか常住の法とか言ってしまえば話はわかりやすいし、制度化されれば信徒も教団も安心なのでしょうけど、それは本質を覆い隠してしまい、真実を見えなくさせるものです。
それに対して徹底的に否定を突きつけたのが、ナーガールジュナの『中論』であり、それこそが大乗仏教運動の本質なのだと私は考えています。