気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

課題。






以下に自分が考えている課題をつらつらと書いてみます。

純粋な創価学会員さんや日蓮正宗の信徒の方が読むと謗法になりそうなので(笑)、そういう方は読んじゃダメでーす(うそ)。





1、曼荼羅の立体的構造

曼荼羅を文字で顕し、中央に法華経の主題を配置。法華経の会座の諸神を配し、天台と伝教も配する。さらには梵字で不動愛染を勧請する。
日蓮法華経の題目を扱う様子には密教的な姿勢を感じる。法華経を読みつつも、題目に力点を置く。つまり題目によることによって一切の諸神も法も正統な流れになると言いたげである。
そもそも日蓮による他宗批判は、法華経を根本にしていないことによる批判、釈迦の教えを根本にしていないことによる理論的批判に集約される。
つまり総合仏教・根本戒として法華経の題目であり、その説明に日蓮は妙楽の一念三千を持ってきたと筆者は考えている。その理論的な説明を『三世諸仏総勘文教相廃立』中に読めるのではないかという仮説。



2、一念三千の理論的解釈

空海の『声字実相義』における阿字は一切の始まりであるとする考え。阿字を持たない言語が存在しないように、原初の意味発生の現場を空海は阿字であると捉えた。
日蓮の思想形成に密教台密の影響があったことは疑い得ない事実だが、法華経における一念三千の捉え方は非常に密教的。密教の影響を無視すれば、日蓮の即身成仏思想も本覚思想も再考することは難しい。
一念三千を理論的に考えることより、実践として題目の朗唱を選んだ日蓮の行為は、一念三千の再構築であり、日蓮なりの解釈である。
つまり一切の意味を理論的に剥奪する一念三千を、唱題による記号の意味の実践的剥奪として考える。
そもそも人間の心理がたかだか3,000種類に分類されて説明できるはずがない。だから三千という数字に意味があるのではなく、一念三千という運動態にこそ日蓮の真意があると考える。



3、日蓮の宗教的実践の意義。

記号をゼロ度にする題目の朗唱は、どのような「功徳」を生むのか。本来の釈迦の思想の再構築こそが日蓮の意志であったと考えると、題目を唱えることが即持戒になる。『観心本尊抄』にあるように末代幼稚の首に掛けさせたのが本来、この本尊であった。
「苦をば苦とさとり楽をば楽をひらく」とする題目の唱え方は、安易な現世利益ではないことの証明である。
願いを叶える信心ではなく、法華経に立脚した生き方、信仰者としての生き方の構築。その教義的な説明。解明。





…………ふう、なんか偉そうに書きました。すいません。
たぶん一生かかっても無理かも。