読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

借り物の信仰。





私の考え方の基本は「信仰を自分の頭で考える」ということです。

誰かに考えてもらうということではありません。
お寺の信心にすがるというものでもありません。
そもそも日蓮は「日蓮宗」という宗派を創設したわけですが、自身の名前を冠した宗派なんて他のどの宗派にも見られないものです。
日蓮はどこかの寺の権威によっていたという印象はあまり抱きません。
遺文を読んで浮かび上がるのは貪欲に学び、自己の教学を構築しようとする法華経の行者としての日蓮の姿です。


現今のどの宗派、日蓮宗、いわゆる一致派にも、興門流にも、日蓮正宗にもとりたてて私は共感はしていません。



私は信徒になりたいのではありません。
私は求める行者でありたいだけです。
罰とか魔などというものは、宗教社会学的に言えば、個別の集団だけに適応される集合意識に過ぎません。
そんなものを私は信じません。
あらゆる権威を私は信じません。
私は現在、すがすがしい信仰をしています。
創価学会の活動家だった頃とは全然違う、充実感であり、自由な感覚です。
今更、日蓮正宗などという権威化された教えに戻る気などありません。
中古天台法門の焼き直しに過ぎない日寛教学など、日蓮の教えとは似て非なるものです。
そのことを考えようとしない、ただの盲信の日蓮正宗信徒になんてなりたくありません。


私の中で、実は教義はすでに完成しています。
ただここのブログで書くためには検証が必要であるということです。
あらゆる権威によらず、自身の頭で考える信仰の理想を、私はかつて創価学会の中に描いていました。
しかしそれは私の愚かな幻想に過ぎませんでした。
創価学会は都合よく日蓮正宗の教義を残して、自教団の権威づけと既得権益の維持にやっきになっているだけです。
本気で日蓮の意思を求めようなんて気はないし、過去の総括もしません。


日蓮正宗は中古天台法門の換骨奪胎によって、身延山と違うという個別化をはかった教団であり、私にとってはもはや過去の遺物です。



寺の信徒になって、本当に日蓮の意志が学べるのでしょうか。
自分の頭で考える信仰を持たない人を私は軽蔑します。
堀日亨という人は自分の頭で考えようとしていた人だと思います。
けれど多くの日蓮正宗の信徒は借り物の教義で生きているだけです。
私はかつて創価学会時代に広宣部で日蓮正宗の教義も学びました。宗門問題の起こる前は創価学会日蓮正宗の信徒団体だったわけです。
宗門問題以降も広宣部で「慧妙」とかを読んでいましたし、寺の御講に入って住職の話を聞いたりもしていました。理境坊の妙観講の方ともよく話しましたし、宗義も教わりました。正本堂があった頃は何度も戒壇本尊にも参拝していました。



日蓮正宗の信仰が、創価学会にとっては拠り所となるのはよくわかりますが、今の私にはそんな宗教など要りません。
功徳なんて別に要りません。
罰なんて出ません。
妙観講の方は日蓮正宗の宗義に依拠して安心したいと思うでしょうし、それは自由ですが、私には全く必要ありません。 
すでに日蓮正宗の教義などは過去の遺物に過ぎません。そんなものは今の私には必要ありませんし、過去の形骸化したものにすがることは大乗仏教の本義からも釈迦の本来の思想であるスッタニパータ等からも外れていると考えます。


私は信仰者でありたいだけです。そして考えて求める行者でありたいだけです。
そのために教団とか組織なんて必要ありません。
必要だと思う人は御本尊とか御法主上人とか池田先生とか拝んで安心していればよいのです。
私には必要のないものです。


何のために信仰をしているのか。
日蓮の思想とはどういうものだったのか。
寺に日蓮の意志があるのか。
教団が和合僧団という仏であるのか。
そんなものを私は信じません。



私の中で大切なのは、思想の運動としての一念三千です。
一念三千という言葉にこだわっているわけではありません。将来的にタームは変わってもよいはずなので、運動としての一心三観とか変わり得るかもしれません。
それをどう説明してもわかる人にはわかるし、わからない人にはわからないという気がしています。


日蓮正宗の信仰を保って安心したい方は、このブログをあまり読まない方がよいでしょうね。
私はそんな過去の遺物にすがる信仰など必要ありませんし、功徳なんて必要ありません。
そもそも現世利益の功徳などというものが、本当に日蓮の教えであったのでしょうか?
日蓮正宗の信徒の方はそのことを自分の頭で考えたのでしょうか。
遺文を検討したのでしょうか。



いつまで経っても、他の日蓮系教団と折り合うことができず、孤立する教団として存続することも一つの信仰の自由ですが、そもそも白蓮阿闍梨日興の真蹟に日蓮を本仏とする文献を見出すことができない。弘安2年本尊については日興の『三時弘経次第』中にも言及がなく、日道の『三師御伝土代』の年表中にさえ弘安2年の記述が存在しない。そんな何ら信用性を担保できない大石寺教学など他の日蓮系教団からは失笑の的に過ぎないのです。


つまり真蹟遺文中に信用性のある記述が見当たらず、客観性を持ち得ない。「唯授一人」「相伝」などの苦し紛れの言い訳でしか自山の正当性を主張することができない、そんな教学といつまで一緒にやるんですかってことです。
そんなものが日蓮の思想を伝えているわけがない。挙げ句の果ては意味のわからない「御肉牙」とか日目が再誕するとか意味不明の教義で神秘性を保つなど、信徒を愚弄するにも程がある。『唱法華題目抄』の「利根と通力にはよるべからず」という蓮祖の遺文に反する魔の所為としか思えません。


日蓮が開祖であるならば、日蓮の真蹟遺文中から語るのが本来の日蓮門下のあるべき態度ではないでしょうか。
そのような学問的な誠実さも信仰者としての真摯さも見失い、低俗な教義で自宗を権威づけ、信徒を愚弄する日蓮正宗の姿勢は、創価学会のやっている愚挙と大して変わりません。



本来の思想の運動としての一念三千とは何か、題目の唱和とは何か、現代における名の意義とは何か、言語と存在の意義、題目による戒とは何か、そういったことの現代における解釈の必要性も学びも忘れて既成宗教化の醜い形骸化を晒しているのは、創価学会日蓮正宗も変わりないではありませんか。



もはや組織に頼ることもできないし、組織の改革を内側から起こしていくこともできないと考えます。
日蓮正宗創価学会も意見を受け入れませんし、自ら教義を再構築する意志も存在しないと判断します。


私は私の考えを誠実に批判し、指導してくれる同志の存在がいれば十分です。
組織化する必要もありません。
このブログは私自身の信仰の検証のためのものです。
日蓮正宗の信仰が良いという人たちは、そこに寄りかかって借り物の信仰で満足していればよいのです。


私はそんなものを信じません。
借り物の思想で生きるなんてできません。
日蓮は自身の思想を求め続けたのではありませんか?
私はあくまで行者でありたいです。
もちろん自身の勉強不足も自覚しています。
私は私の信用できる同志の方々とともに学び続け、求め続けていきたいです。
その同志とは決して日蓮正宗でも創価学会でもあり得ません。



弘安2年の戒壇本尊などという、くだらない借り物の本尊なんて要りません。
必要な人は、作り物の教義で満足していれば良いのです。
まだ日蓮正宗の方が、低俗でありながら、教義としては創価学会よりマシですからね。
批判したい方は私のことを「魔に食い破られた姿」だとか「謗法の徒」とかいろいろ言うかもしれません。
そんな方は私のブログなんて、読まない方がいいですよ。
私の考える思想に触れたら、日蓮正宗なんていられなくなるでしょうからね。



私の考える同志とは、あらゆる組織に安住せず、自身の手で日蓮の思想を求める人です。
そういう人でなければ、日蓮正宗の信徒として、また創価学会員として、平和に暮らしたい方は私のブログなんて読まないことです。
日蓮正宗の信徒の方は、私のブログを興味を持って読んだらきっと「謗法」になりますよ(笑)。
罰でも当たるんじゃありませんか?
私はそんなこと信じませんけどね☆
気をつけてくださいね。
























広告を非表示にする