気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

教義の権威化、保守化




戒壇について、また即身成仏概念について、また一念三千についても、五重の相対についてもいろいろこのブログで書きました。



ところで、このブログを読んでいる創価学会の方はこういったことについてどう考えるのでしょう。
教団が言ってることを鵜呑みにして、自身の頭で考えたり検証したりしないのでしょうか。


戒壇ひとつとってみても、創価学会はかつて昭和40年代に大石寺に正本堂を建立したわけです。
当初、池田会長は正本堂は単に弘安2年の御本尊を安置する場所と考え、この後に「戒壇堂の建立を残すのみです」という発言もしていました。
ところが、大石寺66世細井日達氏の指導がありました。日達氏によれば広宣流布の暁に正本堂がそのまま戒壇堂になるのだという『百六箇抄』を引用しての指導でした。
そこで、創価学会も総体として正本堂建立は実質的な事の戒壇建立になるのだと納得したわけです。



ではそれが正しかったのか、それとも間違っていたのか、現代ではどのように戒壇や戒律の問題を考えるべきなのかという検証が為されるべきです。
そういった過去に対して、創価学会は全く不感症なのか、何も語ろうとしないし、過去を総括して未来にどう活かしていくのかを全く語ろうとしないんです。



たとえば「五重の相対」ひとつとってみても、これは日蓮が考えた教判ではありません。後世の創作された教義であり、どの教えをどの区分にするかという点について日蓮の考え方は実は一貫していません。


創価大学東洋哲学研究所などが創設されたのは、創価学会日蓮仏法が研究を通じて再解釈され、思想的に進化されるためでもあると私は思っていました。
ところが出てきたものと言えば「創価学会仏」と「池田先生」の呼称の固定化(笑)。
これでは東洋哲学研究所が何のためにあるのか、さっぱりわかりません。
菅野博史さん、中野毅さん、宮田幸一さんたちが何のために創価大学にいるのかよくわからなくなりました。
日蓮の研究なんて創価学会はもうやらなくていいと思っているんですかね。
というか、中野毅さんも宮田幸一さんも今の創価学会の教義改正を全面的に肯定しているのでしょうか。もしも彼らが納得して肯定しているとするなら、私は中野氏も宮田氏も評価をどこか間違えた気さえしてきます。


本来、出家者ではなく、在家の信徒団体である創価学会は、比較的自由に経典を解釈できる立場にあるはずです。
経典をどう解釈するかは、出家者よりも在家の方がより自由に考えることができるはずですね。
しかし宗門から離れて、結果どうなったかと言うと、教義を見失って、必死に日蓮正宗の影響力を消そうとやっきになった挙句、思想の底の浅さが出てしまっただけです。


そもそも日蓮正宗の教義なんて、そんな大した教義でもありません。
中古天台口伝法門を下敷きにして、天台=本仏、釈迦=迹仏の口伝を日蓮本仏に置き換えただけです。そして「弘安2年の戒壇本尊」という後世の創作品をあたかも日蓮真蹟であるかのように偽って、自宗の権威づけの道具にした。
日蓮の真蹟遺文による文証が一切存在せず、コンピュータ解析で日禅授与本尊との整合性が指摘された弘安2年の本尊を、信仰のためではなく自宗の権威のために利用した日蓮正宗の罪は重いと思います。その最大の張本人こそ大石寺26世・堅樹日寛でしょう。
創価学会ではやたら大石寺法主の中で日寛が高く評価されますが、私にはなぜ彼が評価されるのかよくわかりません。
要するに日寛を否定すると、今の創価学会の教義の多くも否定されてしまうことになるから、日寛だけは否定できないってことでしょう。
何をそんなに保守的になる必要があるんですかね。
日蓮正宗法主の権威を守らなければならないという理由があるから日寛教学にこだわるのは理解できますが、創価学会は後生大事に日寛教学を抱えていったいぜんたい何を守っているというのでしょう。
創価学会は在家の団体なのだから、そんなものにこだわる理由さえないと思うんです。


私が創価学会に失望したのは実はその点です。
在家であり、日蓮正宗から離れて、立場的には日蓮思想を最も柔軟に解釈できる位置にあります。
それにもかかわらず、過去の教義を総括することもせず、改めることもせず、反省することしない。新たな日蓮思想を構築する意志さえない。
あるのは、現今の組織で出来上がってしまった体制の維持でしかありません。
公明党民音聖教新聞社創価学会本部職員……そういったものの体制と権益の維持のために教義を上手に援用しているとしか思えません。
それなら在家でありながら、実質的には宗教の官僚であり、腐敗堕落した出家者となんら変わりはないでありませんか。