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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

青年部サイトの基礎教学理解。





創価学会青年部サイトで基礎教学を見ていたら、一念三千の項目があった。
2013年のものとのこと。



引用してみたい。


「一念三千とは、法華経に説かれている一切衆生の成仏の原理を、中国の天台大師が『摩訶止観』の中で、体系化して説明したものである。」
(上記「創価学会青年部サイト」より)


残念。少し違います。
天台智顗は『摩訶止観』において、一念三千の説明を一度しかしていないんです。
一念三千説を智顗の究極の極説として体系化した最初の人物は妙楽大師湛然です。
以前、ブログにも書きました。

「一念三千を考える。」

具体的には湛然が『止観輔行伝弘決』において、このことを指摘しており、天台宗において一念三千を体系化したのは智顗というよりむしろ湛然であると言った方が正確かと思います。


『摩訶止観』そのものも、天台智顗の直接の著作ではなく、智顗の講義を弟子の章安灌頂がまとめたものなんですね。
まあ、それは措くとしても、智顗は明確に一念三千を体系化することをあえて避けた印象があります。


この創価学会青年部サイトでは続けて次のように説明しています。


「「一念」とは、私たちの瞬間瞬間の生命のこと。この一念に、すべての現象、働きを意味する三千の諸法が具わっていることを説いたのが一念三千の法理である。」
(上記「創価学会青年部サイト」より)



はい。これ、間違っていると思います。
『摩訶止観』をちゃんと読んでないと思いますね。
智顗は『摩訶止観』において「一念に三千を具するに非ず」「次第にも非ず」「故に理非造作と名く」と述べているわけで、一念三千とは本来、概念と表記の運動として捉えられるべきものでしょう。
つまり日蓮の一念三千理解は湛然の影響が強いのですが、そのことをきちんと理解も検証もせずに、「天台大師は」と言ってる時点で学問的に誠実とは言い難いです。


湛然の体系化は、智顗の功績を高めたように見えつつも、返って一念三千説を歪める結果になったかと思います。
しかし日蓮はこれを自身の即身成仏の原理として採用したわけです。
そのへんの検証とか、そういうことの説明や考察が、この「創価学会青年部サイト」では全くなされておらず、要するに創価学会教学部の言ってることをそのまま載せただけという、お粗末な説明であることは論を待たない。




この「創価学会青年部サイト」では、「五重の相対」も説明されていますが、今回の任用試験では「五重の相対」は試験範囲から除かれていました。
しかしここにこれが残っているということは、創価学会は未だにこの五重の相対を教義として採用するということでしょうか。
それとも、2013年はこれでいってたけど、2016年の任用試験では何も言わずに歴史から抹消するということでしょうか。
要するに過去をきちんと総括しないでダンマリを決め込むというのが創価学会というところなんでしょうね。



教団がそのような立場をとるなら、それはそれでも別にいいんですけど、たとえば大乗仏教とされる北伝仏教、いわゆる漢訳経典の部と、南伝仏教上座部等の教えとに未だに差があるのかないのか、創価学会は公式にはどう考えているのか、わからないんです。



実際には漢訳経典は釈迦の直接の言辞ではなく、非仏説です。
私はそれを大乗仏教の運動として捉えており、体系化を常に回避しようとする運動の中に仏教の本質があると考えるものです。なので、信仰の立場からあえて日蓮の徒であることを続けております。
しかしながら、信仰者自身が自ら体系化、既成概念化を乗り越え、思想の運動として法を捉えるのならば、原始仏教が現代において無効であるとは言い得ないと考えています。
むしろ釈迦の直接の言辞に近い、スッタニパータの方が、釈迦の本来の思想に近いのではないでしょうか。
その意味で、創価学会はかつて五重の相対を採用していた。大小相対があるという立場ですよね。それを今後は採用しないというのなら、それはなぜか、その意味で五重の相対は現代では無効であると教団が判断したのか。会員さんに対するそのへんの説明が全くない。
教団がどんな教義を採用しようが、それはそれで構わないことですけど、会員さんに対してそういった教義の細部の変更を知らせず、ダンマリを決め込んで、知らないうちに教義を変えるというのは、会員を愚弄していると思います。



また逆に、上から教わったことを絶対として、検証もなく、鵜呑みにして学ぶというのは、信仰者の態度としては不誠実なものだと考えます。
創価学会本部が言ってるから正しいのでしょうか。
なぜ会員さんは会員さんで、自身で考え、検証することをやめてしまうのでしょう。
それではまさに盲信ではありませんか。
騙されるのを待っているだけではありませんか。
私が現在、創価学会の地域組織の会員さんや幹部たちと会わない原因は、実はそこにあります。
彼らは自分の頭で考えようとしません。
もはや自分の頭で考えることができず、組織維持のために忠実に働く組織の下僕と化しているのです。



真実はいつもドグマの向こう側にあるものです。だからこそ私たちは考えることをやめてはいけないわけです。
教条的な事項はあくまで教条に過ぎず、真実を一面的にしてしまい、多面性や解釈の可能性を覆い隠してしまいます。