気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

底の浅い思想は消え去る。





「源遠長流」といいますが、底の浅い思想はその場だけで消えてなくなってしまうものです。



安保法制に反対して、公明党に翻意を促した創価学会の内部グループがありましたが、彼らを統一する思想がそこしかないので、あっという間に消え去ってしまうでしょう。
創価学会を変えたいと願う内部改革派が会内に存在することはよくわかりますが、信濃町の執行部の行状を吊るし上げてスケープゴートに仕立て上げても、その後の創価学会のビジョンがないゆえに消え去るだけです。

底の浅い思想は、時間の試練に耐え得ず、やがて消え去ってしまうものです。
当面の目的が達成されれば、もうそれ以上追求するものがないので、そこで思想は行き詰まってしまいます。
創価学会が歴史的役割を終えて消え去ろうとしているように、それを批判する勢力もやがて消え去ってしまうでしょう。


だからこそ、個々人で牧口思想とは何であったのか、日蓮とは何であったのか、問い直すことが大切になってくるのではないでしょうか。
考えることを他人任せ、教学部任せにして、あとは教学試験で出てくることを学べばそれでいいとする発想は、結局創価学会の誤った同じ轍を繰り返す可能性が高く、それでは後世に正しい信仰を継承することにならないわけです。
今さら昭和の創価学会のムーヴメントを現代に蘇らせようなどとはさらさら思いません。もはや教団は過去の遺物であり、歴史の試練に耐え得ず、消え去るだけです。あとは個人の信仰の問題だけが残るのみです。



創価学会本部を糾弾し、学会首脳部を辞任、追放に追い込み、新しい会長を決めてみて果たしてどうなるでしょう。
その後、どうするかというビジョンを持ってないゆえに、その後の方向性について意見が割れるでしょう。本部を批判するだけのグループはそんなビジョンを持っていません。
結果、創価学会は分裂するでしょう。学会を批判するグループからすれば、図らずも彼らを利した結果になるわけです。
まあ、それでもよいならいいですが、要するに創価学会の哲学とか思想性を問い直さないことには何もならないのです。
創価学会の再生を考え、主張する人はそのことを考えるべきでしょう。


私のように、創価学会がいずれ滅んで、個人の信仰に帰ればよいと考えている者にとって、創価学会の組織としての今後は別にどうでもよいことです。
私は自分の考えが、多数の学会員から受け入れられないであろうことは容易に想像がつきます。
弘安2年の本尊を後世の創作とし、日蓮本仏論を根底から否定、新たな一念三千観から日蓮の思想を総合仏教として位置付ける考えなど、興味の対象ではあっても、多くの創価学会員には受け入れられないと考えています。


私は自分の考えが絶対であるとは考えていません。まだ教義的に固まっていないところも多く、検証を必要としています。とりわけ日蓮に本覚思想が本来あったのかという問題と、即身成仏観における真言の影響は大いに研究の余地があります。
本来、新しい教義の策定は創価学会本部のやることでしょう。しかしながら創価学会本部もまた拙速に大胆な教義改正がしづらいという現実がある。大胆に変えてしまえば、会員の反発にあうのは必至です。



分派活動を絶対悪とする考えが創価学会にはあります。これは戸田会長の残した言葉に由来し、創価学会を分裂させることは「破和合僧」に通じるとの考えです。
なので、末端組織から何かを変えようとすると、信濃町が査問したり、除名したりする。その論拠となっています。
逆に信濃町から教義を改正することは、末端の反発にあう可能性が高い。
まあ、いずれ信濃町は教義をまた改正するでしょう。海外に拠点を移したいのが本音でしょうし、そのためにも日蓮正宗時代の古い教義はなるべく外しておきたいわけですから。



いずれにせよ、抜本的な教義の改正には至らず、都合よく教義を変えてお茶を濁すことになりそうです。
結局、彼らにあっては日蓮の本質も、初代会長の本質もどうでもよいことのようです。
創価学会で教えられている教学の底の浅さを知ったら目も当てられないと、普通の人ならそう感じると思うんですけどね。



現在の創価学会の教学は、本当に底の浅いものです。日蓮の本質に迫る気も感じられません。教団運営のために、余計なことを教えまいと真実を隠匿しているような姿勢さえ感じます。
彼らは「一念三千とは何か」という問いでさえ説明できない。一念三千とくると、結局「御本尊様」とか「宇宙」とか「生命」という語で言い換える。それではどうしようもない。
いまだに日寛の教学が尊重されている理由も私にはわかりません。
今の創価学会は日寛教学を離れて、日蓮を考えることができません。それでは日蓮正宗と変わらないではありませんか。
それとも破門されたから、我々こそが本来の日蓮正宗の正統なのだと主張したいのでしょうか。
それなら弘安2年の御本尊を根本とする教義をなぜ改正したのでしょう。創価学会が自分たちを本来の日蓮正宗の正統な流れだと主張するのは勝手ですが、それなら弘安2年の戒壇本尊を絶対的な根本としなければならないはずです。



私は日寛教学からも完全に離れて、弘安2年の御本尊などという後世の創作からも離れて、新たな教義を確立すべきだと考えています。そのためにも日蓮の真蹟遺文を中心に教義を確定させなければなりません。
日蓮正宗が弘安2年の御本尊という後世の創作品を自宗の権威づけに用い、自分たちがさも正統であるかのように振る舞うことは、信仰者としてにわかに容認し難い。
堀日亨氏も『身延離山史』において『聖人御難事』の「二十七年」の文を戒壇本尊の典拠とすることは難しいとし、「蓮祖の直接の言及はないようである」としています。
戒壇本尊はあらゆる文証が存在せず、あとは炭素分析による年代判別法を用いることでしょうが、いまだに日蓮正宗はこの本尊を秘蔵として、拒否し続けている現状があります。



信仰は結局信じる、信じないという点に集約されてしまいます。しかしながら日蓮正宗のこうした姿勢はやはり信徒への欺瞞であると私は考えています。
そんな日蓮正宗の根本の教義、日寛教学から離れるべきというのが私の主張です。
一念三千理論の再解釈により、新たな総合仏教としての日蓮の位置付けをはかることこそ、私の信仰の目標です。



創価学会はもはや自前で日蓮思想の再検証ができなくなっているようで、私はもはや組織をあてにすることをやめにしました。
変に公言しても、信濃町から分派活動とされて除名されてしまうでしょう。まあむしろ除名されて創価学会と無縁だとされた方がスッキリしそうです。