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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

日蓮に言語思想はあるか。





私の考えている一念三千説の再定義は、井筒俊彦からの影響が大きいのです。


とりわけ氏の「意味分節理論と空海」という論文を最近はよく読み直します。これは1984年、高野山での第17回日本密教学大会での氏の特別講演「言語哲学としての真言」を論文として書き改められたものです。同論文は井筒俊彦『意味の深みへ』(岩波書店、1985年)に収録されています。



井筒俊彦は言わずと知れたイスラーム哲学の世界的権威だった方ですが、東洋思想への造詣が深く、言語と存在の問題へ深く思索された思想家でした。
日本人で数少ない、真の思想家と呼べる方なのではないでしょうか。



彼はここで空海の『声字実相義』から、空海の言語世界観を新しい視点で語り始めます。
存在の視点が言語にあるというのは、ハイデガーも指摘していることです。
ここで氏は、真言の本来の意味は言語にまとわりついたラングの権威性を剥ぎ取り、言語そのものが存在へと昇華しようとする、その本来の生成の試みであるとして真言を捉えています。



このような言語哲学的な読みの姿勢は、ソシュール研究者として知られた丸山圭三郎に深く影響を与えました。彼が用いる「言語アラヤ識」の概念は本来、井筒俊彦の考えた言葉でした。
丸山氏はここから独自の哲学を構築。言語と生の運動を「カオスモスの運動」として捉えました(丸山圭三郎カオスモスの運動』講談社学術文庫、1991年)。




既成の言語=ラングに支配され、定常化されている世界は仮の世界であり、言語に本来存在する創造性を取り戻す試みこそが真言の発想なのではないかと、私は考えています。
そして、一念三千説は実はそのようなダイナミクスを内包した言語的運動と捉えることにより、その意義を再措定できるのではないかと考えているわけです。
そしてその意味で日蓮を読む時、彼の言語哲学的発想がよくわかる書として私が考えているのが、天台本覚思想の影響が強いと考えられている『三世諸仏総勘文教相廃立』であり、『当体義抄』なのです。



とすると、私の論述は『三世諸仏総勘文教相廃立』や『当体義抄』のような、本覚思想の強い一連の遺文を真蹟とみなす立場に立つことになります。
もちろん『三世諸仏総勘文教相廃立』も『当体義抄』も真蹟不存です。中山法華経寺3世日祐の『本尊聖教録』目録に記載があることから、それらの真蹟の論拠として論を進めても良いのですが、やはり真蹟不存は説得力に欠ける気もしています。
そこで、日蓮の「即身成仏」概念の密教からの摂取を他の遺文中から考え、日蓮の一念三千説を補強する案を『三世諸仏総勘文教相廃立』に求めたいというのが今のところのアイデアです。



私は若い頃、この言語の運動の概念を空仮中の三諦、一心三観に認め、日興筆の『御義口伝』から日蓮の思想を再考することを試み、「御義口伝ノート」としてまとめていました。
しかしながら『御義口伝』は周知の通り、日興筆とされる講義録であり、またその信用性も非常に乏しい。『御義口伝』は日蓮の思想というより、興門流における日蓮の解釈として読まれるべき書物でしょう。
確かに口伝によって伝わるものもあると思いますが、当然そこには解釈する側のバイアスがかかる。たとえ日興に対する日蓮の講義が実際にあったとしても、それを記録し残した側の解釈に偏ってしまいます。




私の思索の旅は、日蓮の真蹟不存遺文との対話の旅でもあったわけで、果たして私の読みが日蓮の真蹟文献からもきちんと例証できて、それが日蓮の本覚思想にも繋がるのかを以前からずっと考えていたわけです。
ですから、もしかしたらそれが日蓮の真蹟文献からどうしても証明できないとなれば、私はその時こそ日蓮の思想性の限界を自覚し、日蓮の徒であることから離れる時であると考えています。



これらは、私の信仰の過程の中で生じた、自身の課題とも言えます。
この結論が出ても、それをここで公表するのは少し勇気が要りそうです。
自分の中でまずは信仰の過程として、いろいろ考えていきたいです。
まだ私は自身の『三世諸仏総勘文教相廃立』の解釈も『当体義抄』の解釈も、まだ明確にはこのブログで語っていません。まだ語れないというのが正直なところなんですね。