気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

『実名告発・創価学会』を読む。

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野口裕介、滝川清志、小平秀一『実名告発  創価学会』(株式会社金曜日、2016年11月18日)を改めて読んでみる。



創価学会の抱える闇の部分。組織維持という名目で、組織維持にふさわしくない言動を封じ込めようとする動きがあることは非常によくわかる。学会首脳部はそれが正しいと考えていて、組織をかき乱さないようにという名目で異端派を査問したり、除名したりする。
結局、首脳部に意見を訴えようとしても第一庶務に回されたり、たらい回しになったりする。本部職員が池田名誉会長の著作を代筆していた実態が現場の職員の手で明らかになったのは、この本が初めてではないか。
巻末のインタビューも、創価学会員の素直な本音を聞けたようで、興味深く読んだ。


課題点をいくつか。
まず著者の三人がこの本を出したことに一定の評価をしつつも、彼らの姿勢に気になることが散見される。
まず彼らは自分たちに全く非がないと考えている。自身を省みる姿勢はここでは少しも見られない。自分たちこそが「池田名誉会長の心を知り、それを実際に行動に移している」といわんばかりの文面である。つまり彼らの中では池田名誉会長は絶対なのであり、名誉会長の精神に返った創価学会に戻るべきだという主張である。
したがって彼らは現在の創価学会の権威化の問題点について、あくまで学会幹部の責任であると考えている。池田名誉会長は幹部から干されている、あるいは意図的に無視されているという認識である。
池田氏が病床にあり、重要な判断を行えないと彼らは推測しており、それが学会首脳部の暴走と権威化を生んでいると考えている。
しかし池田氏信濃町の大誓堂に行った等の報道が現在もなお聖教新聞紙上でなされており(写真は掲載されないが)、池田氏がまだ動ける状態にあり、意志決定についてまだ可能であることを示唆していると私は考えている。
したがって、現行の創価学会の問題点について、池田名誉会長は基本的に沈黙を保っていて、これは事実上容認であると考える。
したがって、師匠の池田氏の責任問題を追求せずして、現在の創価学会の問題は語れない。そのことをぜひ三人の方だけでなく、多くの会員の方にも認識してほしいというのが私の見解である。


加えて気になるのが文の調子である。
自分たちに正義がある、真実があるといわんばかりの文調なのである。
自身の信仰観について客観的な立場で語る視点は、少なくとも文調からは伝わってこない。
「こんなはずではない。池田先生は全てわかってくださる」という風に語る。つまり彼らの中で彼らの信仰は絶対なのだ。
創価の信仰を持たない非会員の人々のためにこの本は書かれていない。その意味では創価学会の会員向けであり、彼ら自身が社会的に問題を訴えようとしたはずが、返って内輪の意識に自分たちが留まってしまっていることを暴露してしまっているのである。


信仰を客観視する姿勢は、対外的に必要なことだが、創価学会会員はそれができないことが多い。自身の信仰と池田名誉会長は絶対であり、それを根底から問い直すことをしない。自らそれを拒否してしまっていることに会員自身が気づかない。そして社会の無理解を社会のせいにして、公明党拡大や新聞啓蒙に走るという構図が生まれてくる。結果として組織に従順な牧羊が大量生産され、会員の多くは組織に安住して、そこで信仰の問題を共有できる人たちと話して安心する。つまり内輪の論理にこもってしまうのだ。
そのことを創価学会員は気付くべきである。しかしこの文体を読む限り、彼らは自分たちの信仰を充分に客観視できているとは言い難い。


そして著者の三人には新しい思想性がない。創価学会の思想というものが本来あって、そこに寄りかかるだけでよいと考えている。絶対的な指導者である池田名誉会長の心に帰れば全ては解決されると考えている。
つまり学会首脳部の官僚化だけに着目し、幹部批判、中央批判がされるだけの書物であり、創価学会をどのように変革していくか、池田名誉会長以降の創価はどうあるべきか、また教義の問題についてはどうあるべきか、そのような現今の教団が抱える問題意識を彼らはここで全く展開していない。



原田氏も正木氏も池田博正氏も、首脳部幹部の多くがここでは内情暴露の槍玉に挙がっていることから、特定の派に彼らが属しているという意識はないようだ。ある意味、自由に語れるということが、スタンスとして有利な位置にある。
とすれば、信仰を客観視し、自分たちの考える信仰とはそもそも何なのか、それは果たして絶対と言えるのか、その思想的陶冶を果たした上で、新たに論を展開してもらいたい。今のままでは結局何も残らないし、創価学会首脳部に無視されるだけで終わる気がしてならない。


彼らは否定するだろうが、三人がやっていることは、段勲氏や乙骨正生氏たちのスタンスと何ら変わりはないのである。返ってジャーナリスティックに特化している段氏の方が社会的に評価されるはずである。
この書は、内部から首脳部を批判する勢力が出てきたということ、信濃町の指導力の低下が如実に現れていることの証明であるが、創価学会をどう変えるのかという思想的ビジョンはここに見出せない。彼らには創価学会を変えるビジョンも、池田氏亡き後の創価学会のビジョンもこれといって特には存在しないのである。あるのは「池田先生の心に叶った組織に戻れ」という精神論だけで、この精神論が全編に文体の中に貫徹されている。