気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

定例報告




昔、まだ私が創価学会の活動家だった頃の話です。
私が部長になってすぐの頃のことです。
毎週末、日曜日に"定例報告"なるものに頭を悩ませることになります。


(ちょっと補足)
かつて男子部の「部長」(支部の男子部の責任者のこと)というのは、戦う精鋭のような存在でした。部長ってのはなかなかなれなかったんです。
ただ最近では男子部も女子部も人材不足に直面していまして、「部長」とはとうてい思えないような人が部長に担ぎ出されています。ですから現在の実態とはやや違っているかもしれません。ご了承ください。



毎週末、部から本部にあげなければいけない定例報告。
本部長から催促が来るのは、本部もその後、上にあげなければいけないわけで、その上は圏、分県、総県へと集約され、報告があげられる。



何を報告するのか。



◯各地区家庭訪問
各地区家庭訪問数をあげる。家庭訪問できた状況を「A:会合に参加」から「E:会えなかった」まで分け、それぞれの人数を数字で報告。各地区の訪問数の合計が部の統監と一致しないと本部から突っ込まれる。

折伏の実態数
「現場数」「入決数」「本尊流布数」と分けて報告。

◯新聞啓蒙数
活動家の人数、啓蒙数をあげる。これも各地区で分けて報告。一時期はマイ聖教(活動家が同居家族分とは別に自分名義の新聞をとること)の報告もあったかもしれない。

◯座談会参加数、会合結集報告
座談会参加数を各地区から吸い上げて報告。地区リーダーと連絡がとれないと苦労する。本幹同時放送などの時期はその報告もある。もちろん会合前には目標数の報告もある。目標については過去最高結集から見て、どれくらい上乗せできるかを考えて報告する。



……って、本当にめんどくさかったです!
他にも報告することってあったかもしれませんが、めんどくさいのでとりあえずカット。今、思い出せるのはこれくらいでしょうか。パソコンのどこかにエクセルで定例報告のフォーマットが探せばあるとは思うんですけど、探す気にもなれません。思い出したくもない(笑)。当時はエクセルでしたけど、今もそうなんでしょうか。今はラインとかで報告するのかなぁ。わかりませんが、当時の私はエクセルでした。



部長になって、いわゆる創価学会の活動家になって最初にやって来る悩みって、この報告の多さなのでしょうね。「俺たちは創価学会の営業部員なのか!」って思いました。まあ、実質的にはそういうことだったんですね。


活動家になって役職が上がって部長や本部長になったりすると、このへんから創価学会の"営業"が仕事で入ってきて、とても負担になります。事実このへんから創価学会に疑問を持つ人が出てきたりするわけです。


いちいちエクセルで打つのもめんどくさいので、本部長と相談してメールで数字を打つだけのフォーマットをあらかじめ作っておきました。それを木曜とか金曜とかからプチプチ作っておいて、報告の日曜朝にメールで送ると気分良く過ごせたものです。
数は全部辻褄合わせ。要するに全部の数の合計がちゃんと統監と一致してればいいんでしょ。



……という風に結局、この報告は形式的なものと成り果てるんです。そんな毎週毎週、会員さんと会って話して現場作って……なんてあり得ないですよ。いかに現場から遊離して数だけを煽っているかわかります。
この面倒臭さを幹部に相談すると、「それは信心で受け止めるんだよ」という謎の信心指導。



確かにあらかじめフォーマット作っておいて、それをいつでも送れるようにしておく、そうして朝一で本部長に送信すれば、本部長も時間がとれるし、助かるというわけです。
でも、それが本当に信心なんだろうかと。悩みました。本当はこんな数に還元されないものが大事なんじゃないのかなあと。
だから数の報告はテキトーにやりました。数なんてバカにしてましたから。どうせこの数の報告なんて現場を知らない人が見るだけなんでしょ。上の幹部に言わせると「この数の合計で池田先生が判断されるんだ。大切な報告です」なんて言ってましたけど。数の報告は所詮数でしかない。



このへんから急速に創価学会への思いが萎えてきたことは事実です。
圏のヤング男子部長までやり、自転車で家庭訪問を散々やって充実していた毎日を送っていたのですが、部長になった途端にこれです。はい。



こんな活動が果たして日蓮の教えなのでしょうかね。部員さんの信心の状況をA〜Eでランク付けしてデータ化して報告することが、日蓮の教えだとはとても思えませんでした。
新聞啓蒙数を毎回ゼロで報告するのは自分の部の部長としては嫌な気分になるものです。成果が上がってないということですから。「ちゃんと新聞啓蒙しなきゃ」というプレッシャーを感じるでしょう。素直な人ほど自分に責任を感じるものです。
要するにこの報告は部長とかそういった責任職のメンバーに、無言で圧力をかけるようなものです。成果が上がってなければ上から指導される材料にもなり得ますし。


定例報告の数字の中には、信仰の本質はありません。それなのにそれがあたかも大事かなように偽装して騙すようなことをする。それで反論されたら「信心で受け止めろ」と指導される。
そんなの誰もやりたくないですよ。
一切の報告をやめにしてみたらどうでしょう。きっと壮年も婦人も男子も女子も、活動家は大喜びですよ。


信仰は人の心を縛るものではなくて、人の心を自由にするもののはずなのに、定例報告みたいな数の報告で人を縛り付けるなんて、信仰者のやることですかね。
そんなの要りませんよ。やりたければ本部職員でやってくださいませ。