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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

無謬主義の否定。動き続ける本質。

宗教って総本山がだんだん無謬主義になってくるんだと思うんです。



「俺たちは正しい」
「なぜなら開祖の意志を受け継ぐ唯一の総本山だからだ」
「私たちにこそ、教義の決定権がある」



で、そういった形骸化を打ち破ったのが大乗仏教運動であり、例えばナーガールジュナ(龍樹)とかそういう人だったんじゃないんですかね。




だとすると、現在の創価学会ってだんだん無謬主義になっていませんか?
「俺たちは正しい」
「なぜなら開祖の意志を受け継ぐ唯一の総本山だからだ」
「私たちにこそ、教義の決定権がある」
そんな感じじゃないっすか。



創価学会は在家の団体だったはずなんですが、そうなっちゃったらただの権威化された宗教貴族ですよね。




本当に正しいんでしょうか。
正しいとすればなぜでしょうか。
その文証は何でしょうか。
自分の手で検証しましたか。
その検証は充分だったと言えますか。
その検証が一定の客観性を保持していると、公言できますか。
その正しさは永遠不変のものなのでしょうか。それとも時代によって変わり得るものなのでしょうか。
変わり得るとすれば、その普遍性を検証する主体は誰でしょう。一人一人の信仰者でしょうか。それとも教義決定権を持つ教団首脳部でしょうか。
根本の経典は何を依拠とするのでしょう。
原始パーリ語経典でしょうか。漢訳大乗経典でしょうか。
それとも日蓮の言説でしょうか。教団首脳の言説でしょうか。
それを根本として採用する基準は何でしょうか。
それらのことについて、一信仰者は考えたり検証したりする必要はないのでしょうか。
ないとすれば、その根拠は何でしょうか。




社会は必然的に官僚化し、形骸化するというのはマックス・ヴェーバーの視点です。
池田大作『続・若き日の読書』によれば、池田氏は移動の新幹線の車中でマックス・ヴェーバーの『宗教社会学論集』を繙いているそうです。
もしこれが本当だとすれば、池田氏には宗教の形骸化とか官僚化が必然的に起こるという問題意識があり、その答えをヴェーバーに求めたと考えることもできます。



マックス・ヴェーバーの官僚制論文にもあるように、社会は組織化される過程で官僚化され、組織維持のために本来の趣旨とは違う方向に動いくものです。
ですから、新しい風を組織の内部に取り入れ、常に内部からそれを解体するような仕組みを取り込むことでしか、その内実を維持できないものなのでしょう。



戸田城聖氏が法華経を「釈迦の法華経」と「天台の法華経」と「日蓮法華経」とに分けたことは説明として、一定程度、私は評価できるんですね(まあ大乗経典は非仏説ですから、釈迦の法華経という言い方が適切とは思いませんが)。
というのは、法華経には法華経の本質があって、漢訳された法華経にはその本質がありました。けれどそれが次第に意味をなさなくなり、天台智顗が摩訶止観、法華三大部を説いたと。
そして日蓮末法で題目を作ったと。どれも法華経であると。



戸田氏の議論は少し乱暴ですが、私には意味が理解できます。つまり本質と言うのは時代において変わり得るもので、新たな形を必要とするものです。
今の人たちが漢訳の経典をただ音読しても釈迦の心なんてわからないと思いますし。



題目をただ音読することが日蓮の本質に接近することなのでしょうか。
本当に題目って正しいのでしょうか。
自分の信じているものは、日々常に変化するものであり、いつも検証して、一定の普遍性を伴った解釈を試みなければ、必ず形骸化するものなのではないでしょうか。
もちらん変わらない何かを信じていれば、気持ちは楽ですけど、変わらないものは存在しないはずです。
それこそが「諸々の事象は過ぎ去る」としたゴータマの教えだったのではないでしょうか。



とすれば、今、日蓮の教えを無謬主義から救おうと、いつも検証している人は今、この時代にいるのでしょうか。
もしいるとするなら、その人こそが私は善知識なのだと思います。



日蓮鎌倉時代仏教の現状をつぶさに見た。その中で形骸化して人を救うことができなくなっていたり、本質を隠していたり、考えないようにしていたりする他宗を見た。だからこそ彼は自身で教相を画定し、法華経を根本義とする教えを生み出しました。
常に仏の心とは何なのかを検証し、考えることこそが大乗仏教運動です。
「そこに本質はあるのか」
「そこに心はあるのか」
常に考え続けることです。
考えない宗教こそが間違った教えなのだと思います。


考えましょう。自分の頭で考えることです。
財務は正しいのでしょうか。
勤行の形式はこれで良いのでしょうか。
仏とは本当に生命なのでしょうか。
聖教新聞は本当に正しいのでしょうか。
池田先生は正しいのでしょうか。
戸田先生って正しかったのでしょうか。
悪く言うと罰が当たるのでしょうか。
日蓮正宗は正しいのでしょうか。
公明党はいつも正しいのでしょうか。
公明党を作ったことは正しかったのでしょうか。
公明党衆議院にも進出しなければいけなかったのでしょうか。
折伏というのは戦いなのでしょうか。
日蓮仏法は果たして民衆仏法なのでしょうか。
日蓮は他宗教を口汚く罵ったのでしょうか。
敵を責めることが正しいのでしょうか。
現代においてそれが本当に正しいのでしょうか。
仏敵には罰が当たるべきなのでしょうか。
広宣流布って何でしょうか。
御本尊下付数が増えることが広宣流布が進むということなのでしょうか。
広宣流布の暁には戒壇堂を作るべきなのでしょうか。
では戒壇とは何でしょうか。
戒壇とは場所なのでしょうか、それとも戒を与える儀式のことでしょうか。
それは現代において、どう考えたら良いのでしょうか。
自身で考えたのでしょうか。
考えることを他人任せにしていないでしょうか。
考えることを教団任せにしていないでしょうか。
自身で本当に正しさを検証したと言えるでしょうか。
それらをやめてしまった時に宗教の形骸化、官僚化が起こるのではないでしょうか。
創価学会本部だけではない。私たちの思考もまた常に形骸化、固定化され得る危険性を持っています。
思考というのはそういうものです。
自分たちもまた、私もまた、思考は形骸化し、制度化され、官僚化されます。
完成された思想なんて存在するのでしょうか。
完成された法なんて存在するのでしょうか。
「永遠の法が存在する」と言ってしまった瞬間から、腐敗が始まるのではないでしょうか。
だからこそ釈迦は「諸々の事象は過ぎ去る。怠ることなく修行を完成させよ」と最後に弟子たちに述べたのではないですか。


釈迦が体系化された教えを説かなかったのは何故なのでしょうか。
釈迦が相手の思想を決して否定することがなかったのは何故なのでしょうか。
一切は変転して、過ぎ去ってしまうとしたからではないでしょうか。
大乗仏教運動がある意味、大量の漢訳仏典を「創作」したのはなぜでしょうか。
それこそが釈迦の本質に接近することだと考えていたからではないでしょうか。


では本質とは何なのでしょうか。
今の創価学会の形骸化には、翻ってみれば会員である私たち一人一人の思考が結局形骸化され、思考を委ねてしまったことにその責任があるのではないでしょうか。
私はそう思っています。



かつて私は熱心な創価学会の活動家でした。
何の疑いもなく創価学会の教義を信じていました。
その信仰の純粋さを保つことこそが大切であると信じていました。
けれど、それが結局、組織の権威化を許す結果を招いたとは言えないでしょうか。
私の行動に責任があったとは言えないでしょうか。
私はその責任が自身にもあったと今は考えています。
考えない私が愚かだったと思っています。
その自戒の念から、これらのブログの文章の多くも書かれたものです。
余談ですが、創価学会内部告発の本を出版した三人の方は、そのような自戒の念があるのでしょうか。
それとも「私たちは悪くない。本部幹部が全部悪いんだ」と彼らは考えているのでしょうか。
私は私自身にも創価学会腐敗の責任はあると考えています。
その深い自戒から、私は自身の信仰の再生を始めようと思っています。
どこまでできるかなんてわかりませんけど。



誰かを批判するだけで、何かが変わるのでしょうか。
とある三人の方が創価学会内部告発したら何かが変わるのでしょうか。
自分もその中で考えて、自らを疑い、苦しみ悩み、成長して変わることこそが大切なのだと私は思います。
だからこそ、信仰の形は常に変わっていかなければいけないでしょう。
問題は正しく変わるのか、それとも権威化されて惰性で悪しく変わるのか、ということです。



昭和30年代に起こった創価学会という社会の事象はすでに過ぎ去りました。
創価学会の日本における歴史的役割はもう終わったのだと思います。
諸々の事象は過ぎ去ります。
残った形式に仏法の本質は存在しません。
本質は常に動き続けます。
だからこそ私たちは考えることをやめてはいけないのです。