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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

諸々の事象は過ぎ去る。

ゴータマ・ブッダの最後の言葉は



「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」
(マハー・パリー・ニッバーナ・スッタンタ。大般涅槃経


というものでした。
釈迦の教えというものは、人間があっちにしようか、こっちにしようかと、あれこれ悩むのに対して「自らに生きよ」と人の道を指し示すものだったわけです。
釈迦は仏教という教えを本来説いたわけではないし、宗教を創設したわけでもない。
釈迦は対話をする時、相手の立場を必ず認める。一度認めてその上で法を説いてきます。
つまり衆生の機根に合わせて、相手の思想を否定することなく、自身が生きるべき道を指し示すだけなんですね。


釈迦は人が「ダルマ」(理法)にしたがって生きるべきだと説いたわけで、その意味で「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞」なのですね。
その意味で中村元氏が「仏教」ではなく「仏法」であるとしているのは一つの説得力を持ちます。


釈迦はあらゆる事象が過ぎ去るものであり、一切は無常であると説いた。
固定された常住の教えを彼が説いたわけではありません。


いわゆる「六師外道」が現れた背景には、当時のインドではヴェーダが形式的な道徳になり、迷信のように思われていたことがあったとされています。
そこで六師が現れる。彼らの中からは一切の道徳律を否定するものさえ出る。人を殺しても構わない、汚れた魂を浄化するために人は苦行をすべし、人は解脱に達することができない等々です。


釈迦は衆生の機根に合わせて法を説いたわけですが、相手の意見も思想も一度認めて、その上で相手を高い境涯へと導いていく手法を取りました。いわば釈迦は対話の名人だったとも言えるでしょう。


釈迦はヴェーダにおけるアートマン(我)も否定はしていません。釈迦以前のウパニシャッド哲学でアートマンは哲学的な主体概念だったのですが、ゴータマはそれを一度認めた上でより実践的な主体に捉え直しているんですね。
アートマンと対概念になる「ブラフマン」(梵)について、「サンユッタ・ニカーヤ」では「梵」は人格的な存在となっています。釈尊に教えを説くことを請う人として梵天が後に歴史的に人格化して登場してくるというのが面白いなぁと感じます。



釈迦は本来新しい宗教を説いたつもりもなく、ただ相手の機根に合わせて人の生きるべき道を説き、中道を説いた。一切は無常であり、うつろうものであるから、中道として生き、修行を完成させよと主張したわけです。



「見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、〈名称と形態〉(個体)に執著している。『これこそ真理である』と考えている。」
(『スッタニパータ』756節)



中村元氏によれば「名称と形態」というのは『ウパニシャッド』の術語です。
現象世界はいかなるものも名前を持っていると私たちは考えている。いわゆる言語名称目録観と考えられます。
現代でこそソシュール以降、言語名称目録観のような「言語に名指されるべき実体が言語以前に存在する」という考え方は否定されていますが、それをすでに釈迦は看取していると考えてもよいかと思います。



一切が無常であり、名称と形態に固執しない、教義を概念として固定化しない、そのことを中道として生き方として展開したのが歴史上の釈迦という存在でした。



大乗仏教は基本非仏説です。しかし大乗仏教運動は教義の固定化を否定し、常に新しい何かへと解釈をする、その運動だったのだと考えています。ですから何か決まった教義や形骸化された教えを守ることは、少しも釈迦の本意に沿うことではないわけです。
常に新しく何かを捉え直し、考えることこそが冒頭に引用した大般涅槃経での釈迦の真意なのではないでしょうか。
だからこそ私はナーガールジュナ以降の大乗仏教運動に意義を見出しています。そしてそれらの教えも常に新しく解釈し直す運動として捉えなければ容易に形骸化することに気づかなければいけません。



だからこそ
「仏は生命である」とか
「大宇宙に偏在する生命という妙法」とか
「三世常住の法」とか
そのような神秘的な何かが三世に常住していると創価学会が固執するのは、「もろもろの事象は過ぎ去る」とする釈迦の真意にも反しているのではないでしょうか。
そもそも「大宇宙は生命であり、唱題によってその生命の法と自身が合致していく」という考えはウパニシャッド哲学におけるアートマンブラフマンの一致と同義であり、五重相対の教判から見れば創価学会は内外相対の"外道"の教えに依拠していることになります。



私たちの認識には限界があり、それらを認識することは一つの虚偽でしかない。言語により名指される以前に概念は存在し得ないのです。だからこそ認識は記号的であり、記号を創作した瞬間から形式的に固定化されます。
ですから説かれた教えは説かれた瞬間から形骸化するのは避けられないことです。
だからこそ、私たちは常に無反省ではいけないわけですし、常に原点を振り返り、何が開祖の真意であったのかを問い直すことが大切でしょう。