気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

教義のドグマ化について。




創価学会も、日蓮宗の方や他の日蓮系教団と一緒に、遺文の研究や日蓮思想の研究をしたらいいと思うんですよね。
科学的な研究を受け入れる態度を否定しないのなら、なぜ共に研究をしようと働きかけるとか、研究グループに参加するとか、そういう行動に結びつかないのか、私にはわからないんですね。
日蓮宗には学問的蓄積もあるわけですから、それを学ばないなんて学問的誠実さに欠けていると私には思えますし、創価学会ならではの独自の解釈を提示して日蓮系教団をリードすることだってできるではないですか?
だって創価学会日蓮の正当な唯一の後継者たることを自認しているのでしょう?



あるいはそういうことは、東洋哲学研究所はやってるんですかね?
でもそんな活動があったら、聖教新聞でもっと出てきてもいいとは思うんですよね。



大石寺59世堀日亨氏は他門流とも交流があり、学術的な交流もしていたようです。創価学会もそのような姿勢で他門流との対話に臨んでもよいはずです。
そうしたら、それこそ国内での宗教間対話になるではありませんか。
池田名誉会長はイスラームのマジッド・テヘラニアン氏とも、儒教のドゥ・ウェイミン氏とも対談していますものね。
内外相対で言うところの"外道"の思想家と名誉会長が積極的に対話できるなら、国内の日蓮系教団と創価学会が対話することも可能なはずです。それを阻んでいるものがもしあるとするなら、恐らくは「五一の相対」「日興の身延離山」を遠因とする、創価学会員の凝り固まった過去の教義への過信と心情的な問題なのではないでしょうか。
創価学会としても、学術的な研究の成果を真摯に受け入れ、教義を常に見直していく姿勢は大切かと思うんですね。なにせここ数年だけであんなに何度も教義会則を変えてるんですから。



教義の改変が、教団の独断によるのではなく、科学的な研究の成果で相応の客観性を持ち得るのならば、それを受け入れることは学問的な誠実さに繋がるはずです。
それもなく、"三代会長"や"創価学会仏"の"ご内証"によって教義が変わるとするなら、所詮経文に拠らない新興宗教と変わりはありません。



日蓮大聖人を末法の御本仏と拝せぬ者たちとは同席してはならない」とか何とか言って、対話の道を閉ざすんでしょうか。
今の創価学会日蓮本仏論は、日寛教学の固定化されたドグマに過ぎず、信頼できる日蓮遺文のどこをどう読んでも日蓮が釈迦を越える仏であるというコンテクストは出てこないはずです。
学問的に孤立している今の状態は、決して創価学会の未来にプラスには働かないと思います。



まあ、自身の教団を勝手に仏様扱いしてしまったわけですから、いまさら教学をどうこうしようという考えもないのかもしれませんが。



しかし創価学会にはまだ、創価大学の宮田幸一氏や、中野毅氏みたいな方もいて、他門の日蓮系教団の方とも学術的な立場から交流している方も存在します。
逆にこういう方々がいたからこそ、創価学会もいちおう対外的な評価を得てきたんだということです。
それさえ失われたら、本当に創価学会の評価は地に落ちます。



創価学会本部は本気で、自前の教義を形成する気があるのかと問いたくなります。
もうそんな気もないんじゃないかとさえ、言いたくなります。
宮田幸一さんとか中野毅さんは本気で今後の創価学会の教義の問題を考えようとしていると思います。けれど、この方たちに任せて終わりですかね?
それとも宮田幸一氏のような「日蓮大聖人を末法の御本仏と拝せぬ輩」は謗法でしょうか?
信濃町は公式には彼らを「叛逆者」とか「忘恩の徒」とかには認定していないようですけど、それなら私のような一会員も、他門流の御書や文献を読むのは必ずしも謗法とは言えないはずです。



創価学会の現在の教義も、会員たちの教学力も、もうすでに他山から失笑されるようなものになっていると思います。
日蓮の遺文研究から、日蓮本仏説の再考を促した宮田幸一氏の立論に際して、ネット上で学会員からの批判が噴出しているという現状は、創価学会員の教学力の著しい低下、そして創価学会員が冷静に自身の教学について対話できる素地を既に失っているという事態を示していると言えます。挙げ句の果ては須田晴夫氏の反論を無自覚に賞賛し、宮田氏をネット上で「叛逆者」呼ばわりするありさまです。



誤解してほしくないのですが、私は会員が日蓮本仏論をとるのも、それに対して疑義を提示するのも、思想信条の自由だと考えています。
どちらをとっても別に構いません。私の意見は私の意見でしかありませんし。
ただだからと言って宮田氏や須田氏のどちらかを安易に「謗法の徒」として、口汚く罵ることが正しいとはとても思えないのです。
要は学問的な誠実さがどちらにあるのかであって、それに対して議論をすればよいのです。ところがそういう冷静な議論ができる素地を、既に今の創価学会は失いつつあると感じています。思想の相違は尊重されるべきですし、かつて創価大学に来学したローザ・パークス女史も「互いの相違を尊重できる関係性を築いていきましょう」と発言されていました。



学会員自身の教学力低下もさることながら、その学会を内部から批判して乗り越えようとする内部改革派のような方々でさえ、かつての日蓮正宗のドグマから離れられずに、妄信的に日蓮が「末法の御本仏だ」とネット上で唱えたりしています。



創価学会という教団が公式に「日蓮の正当な継承者」ということを表明するなら、教学の研究姿勢もまた真摯で学問的誠実性を持ち、常に現代における解釈をつづける団体であるべきです。
それなのに今の状況は、固定化されたドグマを振りかざして「私たちは正しいのだ。なぜなら我々は未来の経典に記される仏だからだ」なんて平気で語る学会員とか出てくることさえ容易に想像できます。
で、口を開けば「池田先生はこう言っています」しか言えない。
日蓮の仏法でも何でもないではありませんか?
在家中心の仏教団体で、宗門教義のドグマを批判すべき立場なのに、自分たちが率先してドグマに堕してどうするのでしょう。



今の自教団を、会則で「創価学会仏」と規定した意志決定の主体が創価学会の原田会長や谷川主任副会長等の執行部であるとするなら、それは自分たちの教団のドグマ化です。そこには真摯に日蓮の真意を探ろうとする信仰者としての敬虔さが存在しない。もしこの決定が池田名誉会長の決済を経ているのならば、池田名誉会長の責任も重いと考えます。



会員に大事なことを学ばせない、そういう創価学会になっている気がします。
真実に蓋をして、本当のことを語らず、過去の総括も反省もなく、教団自身と三大会長をドグマ化して、現場に金を払わせるだけの宗教法人です。
1960〜70年代に日本に形成された創価学会というコミュニティが信濃町のただの既得権益に変容したと。そして現在の信濃町はその既得権益を教義のドグマ化によって守りたいだけなのではありませんか?