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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

一念三千を考える。



一念三千を考える


実は天台智顗本人は『摩訶止観』において「一念三千」について、一度しか言及していないんですね。

したがって一念三千理論を智顗が体系化したとは即座に言い難いわけです。
「一念三千」が仏法の極理とまでされるようになったのは、妙楽大師湛然の『止観輔行伝弘決』によるところが大きく、この中で湛然は一念三千を智顗の究竟の極説と配釈し、これを指南とするよう説いたことが始まりと考えられます。


天台智顗自身は止観を「三千」という数字に固定観念化していないはずです(もしそうなら、もう少し『摩訶止観』の説明も長くなるはずでしょうし)。もちろん止観では観念観法を三千不可思議境としますが、概念の実在化を天台智顗は上手に避けている。それはナーガールジュナ(龍樹)が法の常住・実在論を徹底的に批判した、その姿勢と重なるわけです。


ところが、妙楽湛然はこの「一念三千」という概念を完全に教理化している。そして後の天台宗の教学体系はこの湛然を基礎として作られていくんですね。


私自身は、この湛然による「一念三千」の固定概念化にやや懐疑的です(天台智顗は概念の実在化ということに対して龍樹と同様に否定的だったはずですから)が、少なくとも「一念三千」と呼称することによって、天台智顗の体系化が可能になった。そして日蓮はこの湛然の理解から一念三千を学び、それを自身の理論中に組み入れていきます。


ですから、本来の一念三千の意義とは、3,000種類という数字に意味があるわけではない。三千という数字を固定観念としてはいけないわけです。三千という数字もまた説明の便宜上の方便であるわけです。
つまり一念に三千を具足するわけでもないし、一念から三千が発生するわけでもない。
以前にも書きましたが、「一念→三千」でもないし、「三千→一念」でもないということが止観の本質なんですね。
つまり記号以前に、記号によって名指される「概念」というものが存在しているわけではないし、一切の知識は分別知でしかなく、記号による差異の体系でしかないわけというのが、本来の止観の本質であり、それこそが龍樹の思想であったと思います。


日本語では「蝶」と「蛾」は別のものですが、フランス語の「パピヨン」という概念は日本語の「蝶」と「蛾」を両方とも含む概念ですね。
また日本語では「兄」と「弟」、「姉」と「妹」は 別概念ですけど、英語の brother とか sister にはその区別が存在しません。
つまり最初から「蝶」とか「蛾」とかそういう概念が存在するわけではなく、言語による分類のされ方によって違う現れ方をするわけです。これは言語学における、いわゆるサピア=ウォーフの仮説ですが、現代思想ではよく知られている考え方でしょう。


ですから概念とか「一念」とかいうものも、最初から存在するわけではなくて、「三千」という諸法の記号によって初めて概念化され、認識可能な何かになるわけです。
つまり記号によって前提されない概念とか本質というものは存在し得ないんですね。


日蓮はこの一念三千の体系を、題目の五字に簡略化したのだと私は考えています。
日蓮自身の「一念三千」の摂取は、天台智顗よりもむしろ湛然からの影響が強いわけで、湛然のように一念三千をやや固定化して捉えるむきが日蓮にもあるように思います。
その固定化を避ける方法として、一念三千を日蓮は一つの運動態として捉えたとする考えが私の自説です。
それをあえて「事の一念三千」と以前の記事で書きましたが、「事の一念三千」という用語は、実際には日蓮の真蹟遺文中には見られないでしょう。「事の一念三千」という用語は恐らくは大石寺26世堅樹日寛による用語かと思われます。
日蓮の一念三千説は天台とも妙楽とも違う、一念三千説の再度の捉え直しだったのではないか、とする仮説を今の私はとっています。そこで運動態として捉える一念三千を「事の一念三千」とすると用語上説明しやすいので、あえて「事の一念三千」という語をここでは使っています。


(脱線)
もう少し日蓮の別の用語で良い表現があれば、変えても良い気はしていますが。
創価学会の教学では「事の一念三千」を「宇宙に偏在する法」みたいな(笑)、わけのわからない解釈で考えているみたいですけど(笑)、私はそんな意味で使いたくはないので、別の語を何か考えるべきかもしれませんね。


日蓮法華経の題目を唱える、その修行そのものによって即身成仏を遂げるとする、非常に密教的・呪術的な考え方で、天台の一念三千を解釈しているように思います。余談ですが「即身成仏」という言葉は弘法空海による造語であり、本来は真言密教の概念なんですね。御本尊を日蓮は「曼荼羅」と呼びますが、この曼荼羅ももちろん真言密教の概念であることは周知の通りです。


唱題による記号の反復により、一切の概念は題目に収斂されますから、一切のラング、既成の言語意味体系から離れて、止観の観念観法の修行となるのだと私は考えています。
そこから新たな意味の再定義を図る。本来、人間に意味は存在していませんので、一切は空になるわけです。けれど一切の意味性を剥ぎ取られて人間は生きることができませんから、その意味性は虚偽でしかないわけです。しかしその虚偽を虚偽として気づくことはできても、その虚偽性を全て否定して生きていくことはできない。唱題をやめた時点で再びまた意味の現実に戻るわけですから。
そして、本来の自分に気づく、その修行こそが日蓮が考えた唱題行なのではないかと私は考えています。苦しみを苦しみと捉えて、楽しみを楽しみと捉えて、苦楽共に生きる、それこそが真に人間らしい生き方なのではないかと。
そういう意味で、教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いなのではないでしょうか。


まだ私の考え方も固まったわけではなく、思索の段階ですが、私見の覚え書きとして書いておきます。