気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

原田会長の指導。財務と青年の育成について。



原田稔会長のお話から。



本幹の原田会長の指導を読んでみました(2016年11月11日付、聖教新聞より)。
冒頭から「今月下旬から財務の振り込みが始まります」だそうです。
原田氏によれば「財務は、世界広布の大願を成就しゆくための御本仏への御供養に通じ、これに勝る大善はありません。」とのこと。


その根拠は何でしょう。
まさか「創価学会広宣流布を進める世界唯一の和合僧団であり、未来の経典における創価学会仏だから」と言いたいのでしょうか。
御書の引用もないですし。
どうして創価学会の財務の振込をすることが、御本仏への供養に通じるのでしょうか。
創価学会は仏だから供養を受けられるんだ」
「なぜなら創価学会は仏だからだ」
論理がトートロジーに陥っていることになぜ無自覚なのでしょう。


そういうことをやってるから、青年って増えないんだと思いますよ。
財務を廃止しましょうよ。
財務なんて金のかかる制度のある組織で活動しようなんて思いませんって。最初は何もなくても、活動し始めたら「広布部員になりませんか」とか言われるんですよね。



本部職員も別に必要ないですって。
現場の幹部で立派な方もたくさんいますから、その方々に指導してもらえれば、いちいち全国幹部が信濃町から来てもらう理由なんてないですよ。
本部職員なんて幹部指導に来てもらっても、こちらが気を使うだけですし。
だから、本部職員はみんな段階的に退職して頂いて、信心の実証を再就職で示してくださいませ。



なんで本部職員に私たちの財務から、年収1千万円近いお給料を払わないといけないんですか?
私は、学会本部職員のお給料のために、財務なんかしたくありませんから。
財務って自由意志だから別にいいんですよね。
財務しないと「謗法」とかないはずですよね。
お給料のない地元幹部の指導で十分ですよ。気も使わなくていいだろうし。



全国幹部なんて来てもらっても、物珍しいだけで、気を使うわ、結集しなきゃいけないわ、面倒ですって。
たまには幹部自らが会合のひと月前とかに地区に入って結集の戦いでもしてみたらどうなんですかね。



原田氏は続けて
「弟子の私どもが(中略)『教条的』で、『旧態依然』であれば、やがて時代に取り残されてしまいかねません。」
とのこと。



すでに創価学会は「教条的」で「旧態依然」ですけどね。
もうそうなってますよ。
その自覚から始めないといけないんじゃないですかね。すでに組織なんて形骸化してきてますよ。変わり映えのしない会合で、毎回この時期になれば指導は「財務」だろうし、だいたい内容にも予想はつきます。みんな素直だから黙って聞いてるだけで、心の中では「ああ、またその話ね」って思ってますから。



で、その次の話が
「そして何より一人一人が『私が青年を拡大しよう!』と決めて、祈ることです」というのですから、「ああ、またその話ね」って私なんかは思います。



いったい何年間、青年部育成って言ってるんですか? 何年前からそれやってるんですか?
ためしに年間テーマで「青年」って書いてある年を挙げてみましょうか。


2000年「21世紀開幕・青年の年」
2005年「青年・拡大の年」
2006年「青年・躍進の年」
2009年「青年・勝利の年」
2010年「創価完勝・青年躍進の年」
2012年「青年学会・拡大の年」
2013年「青年学会・勝利の年」
2017年「世界広布新時代・青年拡大の年」



何回、「青年」をテーマにしたらいいんですかね?
というか、2000年から青年の拡大をテーマにしてきましたが、それは成功だったんですか? 大勝利だったんですか?
その総括はどうしたんですか?
まだ青年が増えないとすると、それは誰のせいなんですか?
祈りが足りないんですかね?



2000年より前に遡ると、1981年〜1982年(昭和56年〜57年)が、2年続けて「青年の年」でした。
ということは、信濃町の中に「青年層の減少」という問題意識が生じたのは、少なくとも2000年前後からだろうと推測できます。



そこから頑張ってきたわけですけど、青年って増えたんですか?
そのテーマは達成できたんですか? それともうまくいかなかったんですか?
とすれば、それは誰の責任なんですか?
私たち現場の会員の祈りと一念が足りなかったんですかね?
男子部と女子部がダメだったんですかね?
そういう反省とか総括って信濃町はしないんですか?



年末の地区討議とか支部討議で部員が悩んで終わりですかね。地元組織はちゃんと年末の討議でやってますよ。それはそれは頭を悩ます討議ですよ。
信濃町は2000年から何かできたんですか?
それとも何もできなかったんですか?
それ、ハッキリさせましょうよ。
青年に魅力のない組織になってしまったんじゃないんですか?
その責任は信濃町にはないんですか?
現場の会員だけに悩ませておいて、良心の痛みを感じないんですか?
現場の会員の心ある人は悩んでますよ。
「自分たちの祈りが足りないから、青年が増えないんだ」って自分を責めてますよ。
信濃町は何も感じないんですか?
原田会長は何も感じないんですか?
必死に戦っている現場の方々に「申し訳ない」とは思わないんですか?
もし思うのならなぜ言わないんですか?
私たちが悪くて、現場は悪くないって、どうしてそう言えないんですか?
心ある学会員さんがかわいそうだとは思わないんですか?
言わないことは無慈悲だとは思わないんですか?



現場の学会員のことを、私はよく知ってます。
かつては私も幹部で、活動家でしたから。
私自身も組織に結果が出ないことに悩み、自分を責めてましたから。
その時に私の代わりに「自分がいけないんだ」「彼は何も悪くない」「彼は誰よりも家庭訪問してるよ」と庇ってくれた直近の幹部の言葉に私はとても救われた気持ちになりました。
何年か経って、次第にそういう心のわかる幹部が地元組織にまでいなくなってしまったことがとても私には悲しかったんですけどね。



そういう支え合い、互助組織としての側面が創価学会にはありました。
今はそれすら滅びかけてますね。
だんだん「なすりつけ合い」の組織になってますよ。
「地区幹部は誰にやらせるか」
「俺は来年はもうB長やらないよ」
「新聞はだれにやってもらうか」
「書籍は誰に買ってもらうか」
「あたしはやらないよ」
「あなたがやればいいでしょ」
「配達員は誰にやってもらうか」
「代配がいないけど、誰にやらせるか」
民音、誰に買ってもらうか」
「たまにはあなた、新聞啓蒙してよ」


で、たまに青年部が地区協議会とか出ると、「次の座談会の司会は青年部でお願いね」って、なすりつけですよ。下手したら御書講義とか研究発表までお願いされますよ。
で、座談会行ってみたら、平均年齢65歳の一人一言コーナー。これじゃ青年は二度と座談会なんかに参加しませんって。若い人たちからは「座談会なんかに参加したら利用されるだけだ」って思われて、若い人なんて二度と座談会なんかに行こうと思いませんって。そんなことがどうしてわからないんですかね。
座談会なんかに参加してたら、次は広布部員で財務頼まれたり、新聞啓蒙を頼まれたり、民音のチケット買わされたり、お願いされるのが目に見えてますから。早めに逃げた方が得策です。
青年部が学会歌の指揮をしても、地区で歌う人が70歳のおじいさん、おばあさんのかぼそい声ばかりだったら、何が楽しくて学会歌なんて歌うんですか。
だったら歌わない方がいいですよ。ご老人に無理させちゃいけませんし。



青年に魅力のある組織はどうしたらできるのか、現場ばかりにアイデアを任せてないで、たまには信濃町から何か提示したらどうなんですかね?
現場に祈らせて終わりですか。
原田会長のお話によれば「根本は祈り」だそうですから。みんな青年を増やすために祈ろうというわけですね。
2000年からずっと祈って戦ってきたのにまだ叶わないんですか?
結局、信濃町にも事態の打開策がなくて、「祈って戦おう」くらいしか考えも出てこないってことですかね。その内情をこの聖教新聞の記事は如実に伝えてしまっています。



2018年も2019年もテーマは「青年拡大」でしょうね。
そして言ってる割には青年がますます減っていく。学会本部はそれを「人口減少」「少子高齢化」と言い訳し、組織に「青年拡大を」って言い続ける。そんなところでしょうね。
信濃町は何も打つ手がなくて、結局組織のためには何もしてくれないんですから。