気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

自身の立場を越えて思考する努力

驚いたことに、最近このブログのアクセス数が急速に増えてきまして、たくさんの方が見てくださっているようです。ありがとうございます。
ネット上というのは宗教の問題を冷静に議論できる場ではまだないと思っていますので、コメントを受け付けず、ただ公開するだけの、非常に独善的ブログであることをお詫びします(笑)。



私、今の創価学会のために何かを書こうなんて思っていません。

創価学会の活動家の方は別に私の話を聞かないと思いますし。
日蓮は釈迦が本仏だと言ってますよ」なんて言ったら、学会員さん、だいたいの方は耳塞いじゃいますね。
「池田名誉会長に52年路線の責任はないんですか」なんて言ったら、「お前は忘恩の輩だ!」なんて言われますよ。
つまり信仰上の核心に話題が至ると、多くの創価学会員さんは信仰が揺らいでしまうので、頑なに耳を塞いでしまうんです。
そんなことで、揺らぐ信仰なんてどうかと思うんですけどね。


「ああ、なるほど。そうも考えられるよね」とか言える余裕が学会員さんにはないんですよ。
お互いの信仰の立場はありますから、創価学会の信仰を保つことももちろん信教の自由です。
でも信仰さえ揺るがなければ、対話ってできると思うんですよね。
それができずに、口汚く罵って、相手にレッテルを貼り、相手を否定することしかできないなら、それは対話でも何でもない。
要するに自身の信仰のよって立つ思想的な基盤が浅はかであることを自ら暴露しているに等しいんです。それで感情的な反発をするか相手を謗法だとかレッテル貼りして否定するくらいしかできない。
そんなことやってると、結局日蓮の思想的な評価も下がりますよね。
「ああ、日蓮を信じるとこういう人間になっちゃうのかぁ」とか思われてしまいますよね。



時間の無駄でしょうし、学会員さんが極端な信仰であったとしても、それらを無駄に乱すだけなら、別に何も話そうとは思いません。
そんな方は私のブログなんて見なければいいんですから。
私は自ら求めていろいろ学んでいきたいと考えています。その中で信仰を自ら検証して何が正しいのかを求めていきたいです。
でもそんなことを学会の幹部に何か言っても、創価学会の方は受け入れないでしょうし。
やんわり落ち着いて話していても、まともに話を聞ける幹部なんてほとんどいませんでした。
返ってこちらを口汚く罵って、私を否定する人が多かったです。
私は活動家時代、もともと広宣部や言論企画部で散々法論をやってきた人間です。ひどいこともたくさんしました。今はとても反省しています。
あんまり酷く言う創価学会の幹部には、御書を引用して迫ったことが以前はありました。多くは回答不能になって貝のように黙ってしまいます。「妙観講さんの方がよっぽど法論のしがいがあるなぁ」なんて思っていました。
今にして見れば、法論なんて偉そうに言って、相手をねじ伏せるようなひどいことをしてきました。大した教学の知識もないのに、表面的な御書の理解でしかないのにです。
そんな法論がプラスになるかと言えば、決してプラスになどなりません。
学会員さんの強固な信念を、御書で根底から否定しても、言葉に詰まって何も言えなくなるだけで、創価学会を変えることにはならないんです。
それでも彼らは思想的に歩み寄れないんです。
昔の私は、そんな法論で何かを変えることができると本気で信じていました。
でも何も変えられません。それで根底から否定されても、彼らは自身の信仰を否定することができませんし、そもそも自身の信仰について考えることを放棄しています。



私は本当は相手が学会員さんだろうが、法華講さんだろうが、誰でも等しく普通に話したいんですけど。
でも、そんなこと話しても学会員さんは聞かないです。
ですから、創価学会を内部から改革しようとしてもおそらく無駄です。
すでに諦めの気持ちの方が強くなっています。




これは自身に問い返すと、信仰の問題は常に自身の立場を越えて思考する、そういう習慣をつけなければ、安易にドグマに堕するということの教訓だとも言えます。
自分も偉そうに書いてますけど、相手に言われたら、それを越えて「ああ、そういう考え方もあるんだよな」って言える心を持つ必要がある。
それができて本当の対話でしょうからね。



創価学会、また日蓮正宗の方もそうでしょうけど、組織も教義も根底から破綻して、創価学会そのものと池田名誉会長の全てが根本から否定されないと、相手の教義を受け入れることができないでしょう。



私は自分の信仰のために、このブログを書いていこうと考えています。
創価学会組織もどこかの総本山も別にあてにせず、自身で信仰を鍛えていきたいといつも考えています。信仰とはいうのは心の中に築くものであって、大きな組織によりかかるものではないはずですし。



今の創価学会本部、信濃町が必要としている人材って何なのでしょうね。
創価学会仏」論を補完してくれる都合の良い教学部員さんでしょうか。
あとはたくさん財務してくれる、お金持ちの素直な信仰者でしょうか。
公明党が変節したとか、幹部が独善的だとか、やいのやいの騒ぐ会員なんかについて、信濃町はどんどん査問して除名にしたいのかもしれませんね。
そんなことしたら、何も考えないで信ずるだけの羊みたいな盲信者がますます増えるだけです。それともそれが広宣流布なんですかね。
信仰を持つと言うことは、何も考えないということの意味だったんですかね。


私は中傷されても悪口を言われても構いません。
創価学会の方も、日蓮正宗の方も、いろんな方が私に勝手なレッテルを貼って罵っていかれるようです。でもそんなことは私にはどうでもよいことです。
私は自分の信仰を求めていくだけですから。
「信心がおかしくなった」とか「退転した」とか言われても、別に全然平気です。
言いたい方はどうぞとしか言えませんが、そういう罵り合いのような境涯を早く脱して、お互いにお互いを認めて対話できる日が来たらいいのになぁと願います。