気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

現証だけで判断するのはどうかと。

現証だけで見るのはどうかと思うんです

でも学会員さんって
そういう視点で他を評価しがちですよね。



例えば
日顕宗に行ったら不幸の連続」とか
「反逆者は顔の如是相に出るのね」とか
邪宗門に入ると不幸な死に方ばかり」とか
なんかすごいことも現場では言います。


日蓮正宗の方にも自分の生活があるわけで
思想の違いだと思うので、
それはそれで認めていくことが大切かと。
いつまでも口汚く罵ってるから
創価学会って評価されないんだと思います。


まあ、それはともかくとして
現証で宗教の正邪を判断するって
どうなんですかね?



要するに
「病気が治った」とか
「経済苦から解放された」とか
「お金が入るようになった」とか
好転するのが正しい宗教で、



「病気になった」とか
「借金を背負った」とか
「お金がどんどん逃げていく」とか
悪化しているのが間違った教えだと
創価学会は考えているようです。




でもね、
長い人生、病気になることもあります
経済苦で悩むこともあります
表面的な一経過を見ただけで、
その方が本当に幸せなのかなんて
判断できないはずですよね




「利根と通力とにはよるべからず」と
唱法華題目抄にあるように
ただのまじないとか
そんなものによってはいけないと
言われていますよね。


四条金吾殿御返事」には以下の
有名な一節がありますね
 

 「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき
苦楽ともに思い合せて
南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、
これあに自受法楽にあらずや」
(学会版御書、1143ページ)


苦しいことも楽しいことも
ともに合わせて題目を唱えていきなさいという
そういう指導ですよね
人生には苦楽が両方ともあるもので、
それを表面的な相から見て
どちらが幸せな人生かなんて
容易に判断なんてつくはずがないです。




日蓮正宗の方でもきっと幸せな生活を
送ってる方はいらっしゃると思いますし、
創価学会の方でも
宿命と戦って
病気で悩んでいる方もいるでしょう
思想の違いはあれど
お互いに幸せになってもらいたいと願うのが
本来の仏教者の精神ではないですかね。



「頼基陳状」という御書の中で
次のような一節があります。
日蓮極楽寺良観について述べた部分です。


「いかがして彼が誑惑の大慢心をたをして
無間地獄の大苦をたすけむと」
(学会版御書、1157ページ)



"なんとかして良観房の慢心を破って
無間の苦しみから彼を救っていきたい"
これが日蓮の心なんじゃないですかね。


自分を否定し、敵対した極楽寺良観房に対し
怨恨の感情など微塵もない
そうではなく、
どうやってこの人を救っていくのかという
慈悲にあふれているではありませんか



創価学会を脱会した方や
日蓮正宗の方が
病気で悩んでいたり
経済苦で苦しんでいたりするのを見て
それを
「仏罰だ」とか「当然の報い」だとか
平気で言える創価学会員さんは
果たしてこの日蓮の心をいかに読むのか
ただしてみたいところです。



そんなことをしていたら
今度は自分が現証から批判されますよ
自分が病気になった時に
自分が苦しんだ時に
本当の苦しみの意味が
わかるんじゃないんですかね



こういう方は創価学会だけでなく
日蓮正宗法華講の方にもいます
お互いにお互いを罵り合って
創価新報と慧妙でやりあって
確執と怨恨が残るだけですよね
そんなのやめましょうよ


創価学会の考える幸福観って
目に見えて健康でお金がある、豊かである
そんな表面的なことなんですかね?
本当の幸せって何なんですかね?
よくそんな質問を学会員さんにすると
「池田先生の弟子として戦える幸せが
最高の幸福だ!」なんて
議論を活動家の方向へと
すり替えられてしまうんですが、


そうではなくて
どういうことが本当の幸せなんですかね
組織の一員として戦うことが幸せですか?
公明党の票を稼ぐことが幸せですか?
では幸せって何ですか?



真摯に敬虔の念を持って
日々祈りを致し
小さな日常に感謝できる
そういう人間になれたことが
私の今の幸せです
この私の幸せは誰も壊すことができません
私の心の中に築いたものですからね



どんな幸せであっても別に構わないんです
でもそれが本当の幸せかって
考えたことがあるかなぁってことです
他の宗教の方が
悩んだり苦しんだりする姿を見て
「現証だ」「仏罰だ」などと罵る人は
果たして本当に幸せな生活を送っていると
言えるのでしょうか
果たしてその人は
「頼基陳状」にあるような
日蓮の心を身に帯した信仰者と
呼ばれるでしょうかね。