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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

本当の一念三千とは。

私が今後書きたいことの
ごく一部を
覚え書き風に書いておきます。
ほとんどの人はよくわからないと思うので
以下から読まないでおくことを推奨します。






さて

一念三千とはソシュール記号論だと思う。

だって
一念に三千があるわけでもないし
三千に一念があるわけでもないんでしょ
どちらが先にあるわけでもない


つまり一念を三千で分析することが
一念三千ではないわけで
三千という数字が大事なわけですらない


これはソシュール記号論でしょう
だって言語記号の内容と記号表示は
どちらが先とは言えず
共起的に起こるんですから。


ソシュールが言った
「言語には
積極的な事項を持たない差異しかない」
との言葉は
非常に一念三千の考えに近いと思います。



そしてソシュールの「差異」という概念は
ナーガールジュナの言う「縁起」でしょうね。
これはソシュール研究家の丸山圭三郎氏が
指摘していたことですけど。



私たちの思想は
常に言語的記号に支配されていて
その中で意味というものを認識するわけです。
意味は最初から存在するものではなく、
言語記号と同時に起こるものですね。
ソシュールシーニュの概念ですけど、
これって天台智顗の一念三千、止観の概念と
非常に近いです。



ソシュールパロール概念について
パロール1とパロール2に分けました。
これは記号の惰性的な使用パロール1と
それを乗り越える創造的な働きパロール2との
二つの側面が言語の使用にあることを
明かしたものです。



私たちの生活は人間の生活であり、
人間の生活である以上、それらは
記号に囲まれ、記号的な意味として
世界を構成しています。
ハイデガー風に言えば
私たちは
常に現生する世界内存在としてでしか
生きられない存在であり、
その世界を捨てることが基本できない。
世界を捨てると
仮面ライダーアマゾンになっちゃいます(笑)
自分の世界を持ってるわけでね。



これらの記号的な世界をそのままに認識し
私たちの世界が記号的な実践の結果に過ぎない
そのことを感じていくのが
「理の一念三千」ですね。


ここに気づいたことから
積極的に記号的な創造活動に入る
このことをパロール2と言いまして
「事の一念三千」とは
このことを包含する理論だと私は考えたい




題目を唱えることは日蓮によれば
末法時における止観の真の修行とされています



仏教が乱れていた鎌倉時代の世にあっては
何が仏の本当の教えであるかわからない
自分たちの生活が所詮意味の集積であり、
その実は縁起の集積でしかない
その実態は空であり、
空とは縁起であり、
関係と記号の差異によって
私たちは意味を感じ取る。
幸福や不幸ですら意味概念であり
その脱却を考えた時に
果たして座禅を組んで禅定に入り
その中で止観を悟ることが
末法衆生にできるのか
そのことに疑問を呈し
新たな修行法を確立したことが
日蓮の意義だったんだと思うんですね。



「愚者多き世となれば止観を先とせず」
とあるように
題目の朗唱によって、記号を空洞化させ
意味の根源に帰る
その根源こそが日蓮にあっては
法華経の法だったのではないかと
私はそう考えています。



総勘文抄、当体義抄は実は
そのような記号的な文脈で読まないと
真意が掴めない御書と考えています。
誰も本当の意味を掴みかねていると思います。
私はそれをやりたいんですね。



結果、うまくいくかもしれないし、
挫折するかもしれません。
でもそれらの言語の迷宮に入り、
言語の持つ記号性を蘇らせる
そのことでしか
日蓮の思想の現代における可能性は
もはや他にはないと考えています。




このことについては
公表をすべきかどうかは
実は決めていません。
見に余る難事業ですから
うまくいかないかもしれないし
誰もわからないかもしれないし
結局やってみて、
やっぱり
自分の間違いに気づくのかもしれません
でもやってみて、それで違ったら
その時は自分の信仰を振り返って
捨てるなり何なりしてみればいい
少なくとも今の創価学会日蓮の教えはないし
今の日蓮正宗にも真の日蓮の教えはない。
だから自分の試みが
自身の信仰を試す機会だと考えています。



なおこの試み、
時間がかかりそうですし、
成功しても公表は躊躇われます
誰もわからなければ公表する意味はないし
私が自分の信仰を
確認する意味でやってるだけですから
間違いだったことに気づいたらなおのこと
公表は躊躇われます
その時はきれいサッパリ
日蓮を捨てないといけないでしょう
でも少なくともやってみて
自分で納得した上でなら
信仰を変えることができるでしょうから。



私の同志たちにいろいろ教わりながら
けれど基本的には私一人で
論文を書いていきたいと考えています。



題目を唱えることは
単に願いを叶えるおまじないではない
「どんな願いも叶うと」とか
わけのわからないことを言っている人を
私は信じません。
題目を唱えることは止観の修行です。
自身のこころに帰り、真の原理に帰る。
そして世界内存在でありながらも
世界との関わり方を見つめ直し
結果として世界を変えていく
そのことこそが本当の
「事の一念三千」なんだと思っています。