気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

任用試験が

なんかね

2014年から創価学会
教学部の任用試験って
毎年あるじゃないですか
毎年毎年
地区2名の受験者を出せって
ことみたいですけど
こんなこと上から打ち出したら
組織の活動家のみなさん、毎年
大変なんじゃありません?



なんでも2020年くらいまで
組織を固めるという意味があるようで
毎年任用試験あるみたいですね







そういえば去年もやってたよな〜って
10月号の大百蓮華見ながら
思ってました。









教学を深める機会とするなら
任用試験をやるのはとても
良いことだと思います
けれども学会の教学が
一貫してない中で
とりあえず年中行事のように
試験やっても
それがその場だけで終わってしまい
常に学ぶという契機にならなければ
あまり意味がないと思うんですよね






朝晩の勤行をするように
みなさん、
御書って日々読むんですかね?
私は毎日できてません
いちおう週に何度かは
御書引っ張り出して
読んでるつもりですが
なにしろ頭の回転が悪くて
考えることも多くて
読解力もないものですからね
少しずつ日々継続しないといけませんね





教学の力って日々継続する中で
維持されるものだと思います
そして例えば学会員さんとか
会った時とか
法華講さんとか顕正会の方とか
話す時とか
そういう時に自分の教学が
曝け出されます
そういう中で
鍛えられていくのが
教学でしょうね





それなのに
いざ法華講の人たちがやってきたら
対論を拒否して出てこないとか
教学上の質問をして回答不能になると
「あなたは二乗ね」と
捨ぜりふを吐いたりとか
「私は教学をちゃんと学んでなくて」とか
言い訳したりとか
そんな幹部が多過ぎる気がします
別に私は二乗でも構いませんし(笑)






まして教学をちゃんと学んでなくて
幹部とかやっていいんですか
教学を学ばないで広宣流布も何もないでしょ
そんなこと幹部が自ら認めていいのかな〜




御書を持ち歩くことも
学会員さん、ほとんどなくなりましたよね
みんな会合に御書持ってかない
座談会は大百蓮華だけ
男子部の会合でも
別に持ってかなくても
今ではいいんじゃないっすかね
方面の教学部長会とかでない限り
広宣部や言論企画部の勉強会なんて
もうないものね
婦人部も男子部も
女子部も壮年部も
みーんな御書なんか
週に一度も読んでないんじゃないっすか
教学試験でもない限り





何? そうか?
みんな御書を読まないから
任用試験やって講師役の人に
まずは読んでもらうということですか?
だとしたら困ったことです









でも任用試験を毎年やったから
現場に教学の強いリーダーとか
青年部の活動家が
増えるだろうというのは
安直な考えですね





教学を学ぶ運動を起こさないと
いけないでしょうね
でもそんな気は信濃町には
あまりないみたい
あまり教学を学ばれても
いろいろと
信濃町の皆さんも
困るんじゃないんですか





民衆を賢くする団体だと
言われてますけど
それが
任用試験の毎年の開催ということかなぁ





確かに任用試験から基礎を学ばないと
その後の教学も何もないでしょうから
やることはやるでいいですが、
毎年地区で受験者を出せなんて
現場は大変ですよ
そのことを何とも思わないんですかね
信濃町の皆さんは







大切なことは
教学を学ぶ運動を起こすことです
そのためには
池田哲学から一度離れて
御書を読んで自分の頭で考えなきゃいけない
そしてそれを誰かと話さないといけない
対話するからこそ
教学って深まるんですよね
法論とか対論だけじゃなくてね(笑)
私が実際そうでしたし
今もそうですから





学会員同士でも別に構わないから
教学について
あれこれ議論する
そういう風潮とか雰囲気って
今の創価学会にはないですね
昔は少しあった気がするんですけど






かつて都内の最高幹部だった
今は亡き父にコテンパンに
教学の議論で打ち負かされたことは
今でも良い思い出になっています
父は教学が強かった
そこは今でも尊敬しています




だからこそ昭和40年代〜50年代にかけて
みんな父に指導を受けにきたんでしょうね
子ども心に覚えてますもの






なんかそういう憧れの先輩っていう存在は
今の創価学会にいるのかなぁ
青年部は憧れるような
目を見張るようなカッコいい
先輩っているんですかね
少なくとも私が男子部のうちに
そういう方は私の周りから
いなくなりました





後に残ったのは変な幹部ばかりでした
御書に照らして
今の公明党のこととか
創価学会の戦いとか
そういうことを語れる人が
いなくなりました







そういうことを学会員が語ることが
あまり良くないことのように
信濃町の幹部の皆さんは
考えたんですかね








教学は日々継続して研鑽すること
そしてそれを誰かと共有したり
対話したり、対論したりすること
そういう中で、誰にも譲れない
哲学として、思想として
教学が根付いてくるんだと思います






自分の言葉で教学を語れない幹部
池田先生の言葉でしか御書を語れない幹部
現代の問題を御書に照らして語れない幹部
法華講の方からの対論から逃げる幹部
対論に負けて当然と思っている幹部





そんな幹部はカッコよくないよ
やっぱり
いつも私の中の理想は
私の父がいます
屹立して
決して負けなかった父でした
父が生きていれば
今こそいろいろ話したいとこなんだけど






父の亡くなる前の遺言は
私がどんどん幹部になるのを目にして
こういうものでした
「あまり学会の中で偉くなるんじゃないよ」
でした。
今、考えると
それなりに意味深ですね