読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

敬虔な祈りを

今日は天気が良くていいですね

前回の続きから少し




「『立正観抄』という御書は
天台宗への批判として書かれた御書であって
それをもって
一念三千の観を学ぶべしとするというのは
いささか早計に過ぎないですかね?」




うーん、わかります
良い質問です
こういう批判とか質問が
できるっていいですね
自分で考えてる証拠です!
こういう人が増えるといいのにね





確かにそうですね
この御書は天台宗法華経を忘れて
ただ止観のみの方が優れているとか
それより禅の方が優れているとか
それはおかしいよと
法華経の名を根本としないで
何を拠り所にするのかという
そういうことを述べた御書が
この「立正観抄」ですものね






でね、私もそれは思ったんですよ
確かにそうだよな〜って
でも不思議なことなんだけど
もし末法において
観心よりも受持の方がずっと大切で
ただ法華経を持つだけで
いいって言うんなら
この御書のトーンは
少し変化したはずです




「最蓮房よ
そんなの気にすんな
法華経を信じてただ持ってりゃ
それでいいんだ
受持することが
観心なんだ」と
そういう風に最蓮房に述べても
おかしくないでしょ?




でもそうではないですよね
ここではちゃんと一心三観とか
天台の止観の大切さも
ちゃんと述べているし
しかも最蓮房って
日蓮から弟子の戒を
受けているんですよ
「最蓮房御返事」にもありますが
文永11年の2月に恐らくは儀式を行って
正式な戒を与えて弟子としています





しかも最蓮房に与えられた御書って
最重要御書ばかりじゃないですか

草木成仏弘決
立正観抄
十八円満抄

大変なものばかりじゃありません?



この「立正観抄」を読む限り
一念三千の観より
受持だけの方が末法は大事なんだという
そういう考え方は
ここからは読み取れません




やっぱり題目をあげるということ
妙法を受持するということは
観念観法の修行であり
日々、自身の己心を見つめる
修行であると
そう考えるべきだと
私は考えています






で、実は本当はここからが大事なんですが
ここからはあまり明確には書けません







一念三千の観って、ほんとうは
そんな難しいことでもないです
一心三観、空仮中の三諦
こいつがわかれば
別になんでもいいんです





だけど
私は創価学会の方に
これらを語ることを
すごく躊躇します





たぶん言っても聞かないんですよ
「それは天台教学だ〜」とか言って




そんなこと言ったら
最蓮房への御抄の数々は
みんな天台教学ですよ(笑)




ええ、ええ、わかりました
必要ない人に私は語りません
黙ってることにします
まあそうなります






だからお題目を唱えて
日蓮の思想をしっかり学んで
だけど本当は観念観法の
修行なんだってことが知りたいとか
同じような志を持ってる人がいれば
私は自由に語ります





創価学会って今は
そういう雰囲気ではないものね
みんな日寛さんの教学になっちゃって
挙げ句の果ては池田思想になっちゃって
受持すればもう観心だ〜とか
池田先生に呼吸を合わせろ〜とか
どーゆーことなんだと(笑)






何も考えなくていいんですかね
黙って呪文唱えればいいんですかね
選挙の対立候補の落選を祈るとか
わけわかんないんですけども(笑)
日顕撲滅!」とか
それって祈りですか?(笑)
祈りじゃなくて呪いでしょ、それ。






そもそも祈りって何ですかね
もっと敬虔なものなんじゃないっすかね





もっと偉大なものに対して
自身の卑俗さを認識し
自らの心を見つめる場なのではないですか
二処三会の儀式って
もっと敬虔なものなんじゃないっすかね







それを説明しようとして
天台教学って人から言われるなら
別に私は語りませんって(笑)
あんたたち、勝手にやってくれよって
なりますよ(笑)




私は私でやりますって
私には私の信仰があって
それを誰も邪魔することなんて
できはしません
私と御本尊の間に
何を入れることができるんですかね?





そうやって私は願いを叶えてきました
自分らしさを取り戻しましたよ
学会の活動家だった頃には
思いもよらなかった
心の拠り所というか
余裕を取り戻しました
心の中にあった隙間が埋まりました






信仰って自分の中に築いていくものです
そのための修行ですよね
私はそうしてます
創価学会の方が何を言おうが
私は崩れません



最後に総勘文抄から引用します。



「此の無相の極理なる寂光の極楽は
一切有情の心性の中に有つて清浄無漏なり
之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり
是の故に心外無別法と云う
此れを一切法は皆是仏法なりと
通達解了すとは云うなり、
生と死と二つの理は生死の夢の理なり
妄想なり顛倒なり
本格の寤を以て我が心性を糾せば
生ず可き始めも無きが故に
死す可き終りも無し
既に生死を離れたる心法に非ずや、
劫火にも焼けず水災にも朽ちず
剣刀にも切られず弓箭にも射られず
芥子の中に入るれども
芥子も広からず心法も縮まらず
虚空の中に満つれども
虚空も広からず心法も狭からず
善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、
故に心の外に善無く悪無し
此の善と悪とを離るるを無記と云うなり」

(「三世諸仏総勘文教相廃立」
御書全集、創価学会版、563ページ)





本当はもっと長く引用したいけど
このくらいで
我慢しておきます





いつか総勘文抄の話とかを
たくさん話せる同志ができたら
いいなぁ
今はそんなことを楽しみに
信仰を深めております








広告を非表示にする