気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

創価学会の罰論

創価学会の罰論について



罰論ってやめません?
創価学会員とかの活動家で
たまにいるんですけど
「そんなことを言うと罰が出る」
「顔の如是相に出てる」
「あの人は法華講で仏罰で死んだ」
「学会をやめると罰が出る」
「反逆者は最後に苦しみながら死ぬ」
とか



あの
そういう罰論やめましょうよ
もう聞いてるだけで
ウンザリしてきます。







確かにね
日蓮という人は
法華経をフィクションとは考えてなかった
本当の物語だと思っていた
それには時代背景があるわけです
当時はそう信じるのが
常識でしたから
自分の信仰を基礎付けるものは
もはや法華経しかない
釈迦の心は法華経
そういう精神です、はい



例えば
但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ 」
これは報恩抄の一文ですけど、景信たちは法華経の十羅刹女の責めを受けて早く死んだと、こういうわけです。



日蓮はこうしたことを信じている
法華経の話を本当だと思っている
だから日蓮の罰論を
現代にそのまま展開すると
大いに問題が生じるわけです。







じゃぁ、それで当時の日蓮を責めるのかと
それはあまり意味がないんじゃないかなぁ
当時はそう信じざるを得なかったわけで







法華経が釈迦の滅後の成立で
ただの物語であって
フィクションであるってことは
現代では常識じゃないですか
釈迦は法華経を別に説いてないし
釈迦の滅後に成立したものですし



だから私たちは
なぜ法華経を信じるのかってことですよね
それは法華経の中にある精神を
信じるわけでしょ
法華経の精髄を信じるわけでしょ
だからフィクションでも
法華経には
救済されるべき
物語や精神があると
信じているんでしょ
だって信仰者なんですから




果たして現代の時代にあって
法華経がフィクションであることが
わかっているこの時に
日蓮が生きていたら
果たして罰論を採用するかなぁ




私はしないと思うんですね
そんな非常識な考えを
日蓮はとらないはずだし
そういった考えは
現代では克服されるべきでしょ




日蓮の罰論は
現代では克服されなければならない
最大の課題でしょうね
そうでないと
いつまでたっても
罰論でお互いを呪い続ける
そういう創価学会になりますよ




「あいつは反逆者だから苦しんで死ぬ」
なんて
そんなこと言えます?
創価学会員の幹部の中にだって
日蓮正宗の信徒の方だって
非業の死を遂げた方はいるでしょう
池田名誉会長の次男だって
早くに亡くなられているじゃないですか




罰だ罰だって
お互いに呪い続けることは
果たして意味のあることでしょうかね
価値創造的な行為ですかね


だからやめましょう
そういうことを言う人を
私は日蓮正宗でも創価学会でも
信用したくないし
話を聞きたくないですね